身につく

 

十読は一写に如かずというように、昔の人はよく本の筆写をやった。
これには、
今のように簡単にコピーをとることができなかった
という事情のほかに、
文章の練習という意味合いもあった。
作家志望の青年が、
敬愛する作家の作品を一字一句丁寧に写しながら、
文章の呼吸を学んだのだった。
井伏鱒二は若いころ、
志賀直哉の作品を原稿用紙に丹念に写して文章の勉強をしたという。
先年亡くなった澁澤龍彥は、
堀口大學の訳詩をノートに書き写して、
詩の翻訳の機微を学んだらしい。
没後、
お宅にうかがう機会があり、
そのとき書斎を整理していた夫人に、
こういうノートが出てきたのですが、
本があるのに
どうしてわざわざ書き写したのでしょうと尋ねられた。
フランス文学者の翻訳家でもあった澁澤龍彦も、
人知れずそんな地道な努力をしていたのだった。
(鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』平凡社、2008年、pp.121-122)

 

文章も、体験して身につくということでしょうか。
きのう、この欄に、ヤザワさんとイトイさんの対談のことについて書きましたが、
ふたりの語りのおもしろさは、
どれも体験に裏打ちされているからだと感じます。
大声を発しなくても、
体験に裏打ちされ生まれることばが、
胸にとどき、
こころにひびいて来るのでしょう。
同じように、
文章の呼吸が身につくには、
身体を通すことがどうしても必要なようです。

 

・身の上がひとり旅する秋の風  野衾

 

ヤザワさんとイトイさん

 

イトイさんとヤザワさんでもいいわけですが。
知らずに過ぎていましたけれど、
2019年に、
七年ぶりに対談をしていたそうで、
それがネット上で読むことができます。
タイトルは、
「ほぼ日刊イトイ新聞創刊21周年の記念企画 矢沢永吉×糸井重里 スティル、現役。」
はい。
ヤザワさんは、矢沢永吉。
イトイさんは、糸井重里。
ふたりの対談、
長丁場ですが、むちゃくちゃおもしろく、
感動しながら、また、うらやましくも思いながら、
最後まで読みました。
なにがうらやましかったかといえば、
こういう対談の時間は、
いかに事前の準備をしても、
一朝一夕にはぜったいに実現できないものである
と感じたからです。
ヤザワさんの話したことをイトイさんがまとめた『成りあがり』は、
ベストセラーになりましたが、
それについても触れられていました。
本づくりのために、
イトイさんがヤザワさんにくっついて歩き、
どこでもテープを回すものだから、
「おまえ、しつこいんだよ」
と、
ケンカになりそうなこともあったのだとか。
『成りあがり』という書名は、
イトイさんの提案によるそうですが、
ヤザワさん、
初めは気に入らなかったのに、
イトイさんの話を聞いて納得し、
受け入れたそうです。
ひとの話を聴いて、それを録音し、テープ起こし、校正、編集し、
まるでヤザワさんが語っているかのように
読めるけど、
そんなことはあり得ないわけで、
あの本がいかにイトイさんの力業であるかを、
まざまざと見せつけられるような、
そして、
ヤザワさんのひととなりを文字で知ることができる、
すばらしい本でした。
そういうかけがえのない、
火花が散るような時間があったればこそ
の、
2019年の対談なのだとつくづく感じ入りました。

 

・ひぐらしはとどかぬ夢の名残かな  野衾

 

岩本素白

 

素白が古典を味読する上にも、いかに鋭敏な感覚によっていたかがわかる。
それは自身の書く文章にも随所に感じられる。
たとえば――
荒物屋、煎餅屋、煙草屋、建具屋、そういう店に交って、
出窓に万年青おもとを置いたしもた屋の、古風な潜くぐりのある格子戸には、
「焼きつぎ」という古い看板を掛けた家がある。(「寺町」)
ただこれだけのことだが、
そう思って読むと、独特のリズムがあっておもしろい。
気ままに歩きながら、
その眼差しは土地の人びとにも念入りにそそがれる。
世の変遷をかこつ寺町の老人、
子守をしている婆さんや小おんな、
石欄に腰を掛けて春の光を楽しんでいる蓬髪垢面の怪しげな人物、
角の店先にほのぐらい行灯を置いていた店の主など、
いずれも時代にとり残されたような人物である。
日ごろ顔をのぞかせる知人も、
旧時代の風習をいまだ慎ましく守る、善良にして克明、篤実な人たちだった。
かつてはどの町にもひとりぐらいはいたと思われる、
やや頭のおかしな奇人も登場する。
彼らは笑われときにからかわれながら、
誰からも親しまれていた。
そんな愚人にそそがれる眼差しには、
人間というものを見つめた末に生れる温かみがこもっている。
細やかにして、
いくらか複雑な眼差しといわなければならない。
(鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』平凡社、2008年、pp.93-94)

 

素白とは岩本素白。池内紀さんが編んだ素白の本がある。
池内さんは、
素白によって散歩のたのしさを知ったという。
それと、
静けさのしみとおった言葉づかい、静かな文章を。
引用した鶴ヶ谷真一さんの文章にも共通の息づかいが感じられる。

弊社は本日より通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・夏草や原子心母の胸騒ぎ  野衾

 

愉快なポスター

 

仕事柄もあると思いますが、世にあるチラシ、ポスター、看板、各種掲示板、
それらが目の前に現れると、
つい目が行きます。
せんだって、
横浜駅から東急東横線の電車に乗ろうとしたとき、
下の写真にあるポスターが目に入りました。
「並んでいる方がいます!」
「割り込み乗車はおやめください!」
イラストが描いてあり、
電車を待ってきちんと並んでいるのに、横からスーッと移動してきた人物が、
人の列を無視して電車に入ろうとしている。
ブッブーッ!!
伝えたいことが分かりやすく、
きちんと伝わるポスターだと思いました。
ここまで、
わたしは、ふつうに、
「なるほど。たしかになぁ。そういう人、いるなぁ」
と、
電車を待ちながら眺めていました。
しばらくして、
ん!?
と目をみはったのは、
並んでいる人の頭になにやら印が付けられている
ことでした。
目を凝らしてよく見ると、
すべての人の頭に怒りのマーク。
省略されたピクトグラムのような人の頭に記された怒りのマークは、
激しく主張しつつ、
しかしあくまでも静かに、
でも、
これでもかというほど目立っている。
ジッと眺めながら、
怒りのマーク付きのそれぞれの人の見えない表情を想像していたら、
ふつふつと笑いがこみあげてきた。
ふき出すまでには至りません
でしたが。
早朝の地下鉄のホームが少し明るくなった
気がしました。

弊社は明日(水)から来週15日(月)まで、
夏季休業とさせていただきます。
16日(火)から通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・夏草は煤と汁とのかをりかな  野衾

 

きのうの空

 

休日出勤しての帰宅途中、ドラッグストアに立ち寄り、キッチンタオルなどを購入し、
それからドラッグストアを出て、
交差点を渡り保土ヶ谷橋へ向かう途上、
近ごろリニューアルオープンしたコンビニに、
立ち寄るべきか、
素通りすべきか、
すこし躊躇っていたところ、
なかから、
目の覚めるような青いドレスを着た背の高い女性が現れ、
クッと90度、身を返し、
保土ヶ谷橋方面へ向かうようでありました。
目鼻立ちがくっきりとしており、
『ひまわり』のソフィア・ローレンをほうふつとさせました。
ドレスの丈、色も、
わたしの想像を刺激するのに一役買ってくれた
ようです。
わたしは、
コンビニに入ることをすっかり忘れ、
磁石に引きつけられるようにして、
青いドレスの女性の後ろを保土ヶ谷橋の交差点に向かって歩きだしました。
女性は、
歩くスピードが速く、
わたしはだんだん引き離されていきます。
と、
女性の右手に何やら握られているのが、
目に入りました。
ん!?
なんだ?
茶色い、四角っぽい、瓶。
わたしは、
歩くスピードを少し上げました。
あ!!
ブルドックソース!!
ん~~~
わけもなく、
なんだか、だんだん愉しくなってきました。
大股で歩いていくソフィア・ローレン似のキリリとした女性の右手に、ブルドックソース。
それだけを持ち。
暮らしがちゃんとここにある、
たとえて言えば、
そんな感じ。
威厳さえ感じられました。
女性は、どんどんわたしから離れていきました。

 

・曇天破れ垂直の驟雨かな  野衾

 

全作つ、にふき出す

 

日に日に老人になってまいりまして、
あれこれと、いろいろ考えることがあるわけですが、
すこし落ち着いた老人になろうと思い立った、わけではないけれど、
老老つながりで、
『老子』をぽつぽつ読んでいましたら、
こんな箇所に出くわして、
思わずふき出してしまいました。

 

徳を含むことの厚き者は 赤子せきしに比くらぶ。
蜂蠆虺蛇ほうたいきだも螫さず、猛獣も拠おさえず、
攫鳥かくちょうも搏たず。
骨弱く筋きんやわらかくして握にぎること固し。
いまだ牝牡ひんぼの合ごうを知らずして而しかも全ぜんつは、
精の至いたりなり。
終日号いて而も嗄れざるは、和の至りなり。

 

全作つ。ぜんたつ。蜂屋邦夫さんの訳では、こうなります。

 

豊かに徳をそなえている人は、赤ん坊にたとえられる。
赤ん坊は、蜂やさそり、まむし、蛇も刺したり咬んだりせず、
猛獣も襲いかからず、猛禽もつかみかからない。
骨は弱く筋は柔らかいのに、しっかりと拳こぶしを握っている。
男女の交わりを知らないのに、性器が立っているのは、
精気が充足しているからである。
一日中泣きさけんでも声がかれないのは、和気が充足しているからである。

 

なんだかナンセンス漫画の図が脳裏をかすめるわけですが、
なんたって老子ですからね。
老子を勧める人って、
世俗のことにあまりかかわらず、
春風駘蕩の風情を醸しだしている、
そういうイメージがありますが、
たしかにイメージ通りの文言もあるにはあるけれど、
わたしとしては、
引用したこういうところこそ、若いときに教えて欲しかったと思う、
きょうこの頃ではあります。

 

・尻端折りして家々へ夕立かな  野衾

 

セロニアス・モンク

 

このごろ毎日聴いているのが、セロニアス・モンクのThelonious himself。
きっかけは、
ふと。
そう言うしかありません。
二週間ほど前でしたか、CDの棚を眺めていて、
そうだ、近ごろ、セロニアス・モンクを聴いていなかったな、
と独り言ち、
棚から取り出したのが、
Thelonious himself。
モンクのジャズは、昔から、好みが分かれているようですが、
わたしの場合、これまでのところ、
好きでも嫌いでもなく、
へ~、こういうジャズもあるんですか、
みたいな。
それなのに、どうしたわけか、ヘビーローテーションで聴くようになるというのは、
じぶんのことではあるけれど、
不思議です。
どんな感じに聴こえるかといえば、
ひとことで言って、
小さな子供がひとり無心に遊んでいるような、
そんなイメージ。
ふと、ピアノの鍵盤に指を落としたら、きらきら音が光り始め、驚き、
光る音と戯れているうちに、
つい夢中になり、
かと思えば、
ふと、
訳もなく寂しくなって、
見えていた空の色まで俄かにかき曇り、
どこか行こうかな、でも、どこへ?
どこへでも。
このアルバムには「ふと」した現在、仏教でいうところの「而今」が詰まっているようです。
CDの宣伝文句に「闇」とありますが、
闇を感じることはありません。

 

・遠雷を合図に飛び立つ雀たち  野衾