眠ること

 

かつて体調を崩していたころ、
眠れない日々がつづいたことがありました。
医者にかかっていましたから、
睡眠薬、睡眠導入剤を処方してもらうことも可能だった
とは思いますが、
そうしませんでした。
じっと天井を見て一時間、
寝返りを打って一時間
と、
眠れない時が過ぎていきました。
そうした体験があったから尚のこと、
眠ること、眠れることのありがたさがつくづく思われます。
いまは九時過ぎに床に就きますが、
知らぬ間にスッと眠っているようです。
夏目漱石の小説に、
登場人物が、
眠りの境い目を確認しようと図る場面があったと記憶していますが、
そんなことを意図すれば、
眠れるはずなどありません。
「ここが境い目」
と感じることは、
覚醒の意識がまだ残っていることの証でしょうから。
眠りというのは、
「いつの間にか」「自然に」
であって、
がんばって眠るというのは語義矛盾以外の何ものでもありません。
がんばるの語源は「我を張る」
だそうで、
我を張っていては、とてもじゃないが眠れない。
我を張らず、
「一日の苦労は一日にて足れり」
と、
身を横たえるしかなさそうです。

 

・春光やカーテンの影濃くなりぬ  野衾

 

垂直のピーク

 

人生をマラソンにたとえ、折り返し地点を過ぎた、
あるいは、
山登りにたとえ、ピークを過ぎた、
というような言い方をし、
加齢とともにそういうたとえがしっくりくる年齢にわたしもなりまして、
そうだな、との感慨がないではないけれど、
それは、
人生をいわば水平にとらえての見方か、
とも感じられます。
時間は不可逆ですし、能力には限界があり、
まわりの植物、動物を見れば、
ニンゲンだけ例外というわけにはいきません。
しかし、
軸を水平から垂直にもってくると、
時間や能力とは一切関係なく、
いのちあるそのときどきでピークがあるのではないか、
という気がします。
道元なら「而今」というでしょうか。
いま、このとき。
『聖書』なら、
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ」
でしょうか。
感覚でとらえることではない気もしますが、
前方を見ていても、
下を向いていても、
いのちが上に向いていると実感する、
あるいは実感したい、
そういう時が確かにあって、
今の年齢でもあるし、
ことばをよく知らない幼い頃もあった気がします。
これからもそうでありたい。
水平のピークは、
たとえば競技場のメダルですが、
垂直のピークは、
謙虚による大和(たいか)、共生、
ということになるでしょうか。
生死に関係なくゴールはなさそうです。

 

・春泥を待ちて佇む農夫かな  野衾

 

好きなテレビCM

 

吉岡里帆がきつね役で登場する「日清のどん兵衛」は、
きつねが可愛くて好きなCMですが、
いちばんは何といってもイエローハット
ですかねぇ。
鼓動にも似た音を発するエンジン室のシーンから始まりますが、
これが流れるたび、
いつも食い入るように見ています。
さいしょ、なんて言ってるのかなぁと思いましたが、
「めちゃめちゃたくさんめちゃたくさん」
と言っているようで。
はぁ。
タイヤがいっぱいあるよ、
ってことか。
なるほど。
音楽も好きだし、女の子の踊りも。

 

・司馬遷のまなうらや光瀾の春  野衾

 

エスプレッソマシンが来た!

 

会社の三時に当番制でコーヒー、紅茶を入れていましたが、
それぞれが仕事を持ち、集中しているときに、
貴重な時間が割かれることを回避するため、
レンタルのコーヒーマシンを設置。
水曜日に試飲を行い微調整をし、
きのうから、
いつでもだれでも自由にコーヒーが飲めるようになりました。
ボタンを押すと、
一杯ごとに豆を挽くので、
挽きたてのコーヒーの香りがただよい、
なおいっそうコーヒーの味を引き立ててくれます。
味もすばらしい!
仕事の場がさらに集中します。

 

・春の風八郎潟を帆舟かな  野衾

 

文は自画像

 

必要があってこのブログを読み返していたところ、
割と最近、
ここ十年間に書いたものであっても、
どうしてこんなにはしゃいだ文章を書いているんだろう、
と思うことがたびたびありまして。
こんなにはしゃいでいては、
読んでくださる方が白けるのでは、
と感じることも。
書いてしまったものは仕方ありませんが、
その日その日、
時間的にはその日の朝の気分を色濃く反映しているのでしょう。
わたしは絵が苦手で、
じぶんの貌を描いたことはありませんけれど、
文がそのときどきの貌に見えてきます。
文質彬彬という言葉に準えていえば、
文と質のバランスが年齢によって変るようです。

 

・ウェルテルの頁めくるや春の風  野衾

 

小さい事

 

Suicaが使える場面では、Suicaを使います。
2万円までチャージできるので、
けっこうながく使えて便利。
Suicaのコマーシャルみたいですが、
そうでなく。
きのうの帰宅時、保土ヶ谷駅でのこと。
自動改札機にSuicaをタッチすると、残額が表示されました。
15151。
お。
ただ、たったそれだけのことですが、
ほんのちょっぴり嬉しくなった。
15151。
いい子憩い。
うしろから読んでもいい子憩い。
たったそれだけの事ですが。

 

・幾度目の春を数えて春新た  野衾

 

薄い学術書

 

大学一年生、いや、
日本経済史のゼミを選択した三年生になってからでしょうか、
岩波文庫の、
山田盛太郎著『日本資本主義分析』
という本を手に取りました。
そんなに厚い本ではなかった。
文庫だし。
軽い気持ちで。
マルクスの『資本論』を相当読み込んだつもり
がおそらくあって、
鼻息荒く手に取ったのではなかったか
と思います。
ところが、
なんというか、
ことばがぶつぶつ切れて、
やたらに記号が多く、
なんだこれは? が初見の印象。
しかし、
しぶとくしがみつき、読み返しているうちに、
なんとなく著者の言いたいことが理解できるようになった、
気がしました。
今にして思えば、
それは理解したのではなく「気がした」だけで、
ほんとうに分かる、腑に落ちる、
こととはちがっていた気がします。
これまた「気がし」たではありますが。
それはともかく。
薄い学術書、短い記述のコンパクトな学術書、注の少ない学術書は、
けして分かりやすくはない。
さらにいえば、おもしろくない。
わたしの実感です。
『日本資本主義分析』はむかしの話ではあるけれど、
いまも同じ問題が続いているのではないか。
さらに深刻化しているかもしれない。
ほんとうに学ぼうとする者が、新しい世界に触れ、理解し、
ストンと腑に落ちることを体感、体験するには時間がかかるし、
だから、
注はぜひとも充実していてほしい。
注を省くなどもってのほか。
注に頼るような本は嫌いだといった著名な学者がいましたが、
その人が翻訳した学術書の注は少なくなかったし、
行き届いてもいました。
注にこそ、学術書の本領が発揮され、
学び手を導いてくれるものと信じたい。

 

・さかしらをどつどどどどう春疾風  野衾