自宅PCが壊れました

 

いきなり、見たことないメッセージが現れ、焦りました。
ただいま対応を考えておりますが、
復旧するまで数日かかりそうですので、
しばらく休むことにします。
その間の手当も考えましたけれど、
おおげさにいえば、
朝、三時のあたまとこころで書いていますので、
それをだいじにしたいと思います。
よろしくお願い申し上げます。

 

三浦 拝

父の日記

 

きのう、秋田の実家に電話し父と話をしていたときのこと、
若いときに出稼ぎをしていて書いた日記が物置から出てきたと、興奮気味に父がいった。
ええっ、
と、わたしも驚いた。
その頃の話は、父からよく聞いていて
2010年に上梓した拙著『父のふるさと 秋田往来』にも記した。
ただ、そのときは、
もっぱら父の記憶によって書いたのであって、
当時の日記があるとは、わたしはもちろん、父も念頭になかったと思う。
それが出てきたということは、
父が日記をつけはじめたのは六十年ほど前からと、
なんとなく
(そう考える根拠がないわけではない)
思ってきたのに、
さらに遡って七十年ほど前、
あるいはもっと前、
ということになる。
父は若い頃からよく出稼ぎをしていたけれど、
いくつか聞いて知っていたエピソードのなかに、北海道に行ったときのことがあり、
地元のノド自慢大会‎に出場したこと、
稼いだカネで、
秋田にいる妹たちにプレゼントを送ったことなど、
それも見つかった日記に記されていたと、
これは電話での父の話。
わたしが疑問に思ったのは、そもそもなぜ父が日記をつけようとしたのか、
ということ。
六十年ほど前、と思ってきたのは、
反当りの米の収穫量の多さで県から表彰されたことがきっかけ、
と父から聞いていたからだったが、
七十年というと、
さらにその前ということになるから、
これまでの理由付けだけでは説明しきれない。
なにかきっかけがあったはず。
根拠はないけれど、
ふと、
石川理紀之助さんでは、と、
閃いた。
父が学んだ金足農業高校の校庭には、石川さんの有名な「 寝て居て人を起こす事勿れ」
の碑がある。
石川さんは、農聖と称され、秋田の二宮尊徳ともいわれてきた。
石川さんは、こまめに日記をつける人だったらしく、
わたしは私家版の「石川理紀之助翁日記」を持っている。
薄い関係浅からず、
なにかあるような気がしてきた。

 

・夏だもの鼻血ぐらいと励まされ  野衾