哲学者だって

 

まず小野小町の有名な歌。

 

思ひつつ寝《ぬ》ればや人の見えつらん夢と知りせばさめざらましを

 

『古今和歌集』の第552歌であります。

 

この場合の「人」は恋人でしょう。
恋の苦しさが詠われています。
片桐洋一さんの『古今和歌集全評釈』でこの歌を目にしたちょうど同じ日、
スピノザの『エティカ』の下のような文章に出くわしました。

 

しかし、注意しなければならないことは、われわれが思想や像を秩序づけるさいに、
常に喜びの感情から行為へと決定されるように、
おのおののものの中で善であるものに注目しなければならないということである。
たとえば、
ある人が自分は名誉欲に駆られすぎていると反省したならば、
それを正しく利用することを考え、
それがどんな目的で追求されなければならないか、
またどんな手段でそれが獲得されうるかを考えなければならない。
だが名誉の濫用、そのむなしさ、人間の移り気、
そのほかこれらに類することを考えてはならない。
このようなことは不健康な心の持ち主のみが考えるのである。
なぜなら野心家は、
自分のもとめる名誉の獲得に絶望するとき、
このような考えによってもっとも多く自分を傷つけ、
怒りを発しながら自分を賢く見せたがるからである。
それゆえ、
名誉の濫用やこの世のむなしさについてもっとも多く慨嘆する者が、
名誉をもっとも多く欲している人であることはたしかである。
しかしこのことは、
野心家にだけ見られることではなく、
不運をかこち、無力な精神をもつすべての人たちに共通なことである。
なぜなら、
貧乏で貪欲な人も金銭の濫用や金持の悪徳について語ることをやめないが、
彼はこのことによって自分自身を傷つけ、
自分の貧乏だけではなく、
他人の富にも不満をいだいていることしか、
他人に示さないのである。
これと同じことであるが、
愛する女からひどいしうちをうけたものは、
女の移り気や偽りの心やそのほか詩歌に言いふるされた女の欠点しか考えない。
しかしこれらすべては、
愛する女からふたたび迎えられるやいなや、
ただちに忘れられてしまうのである。
(スピノザ[著]工藤喜作・斎藤博[訳]『エティカ』中公クラシックス、2007年、pp.430-1)

 

さいごの方に出てくる「これと同じことであるが」につづくくだりは、
なるほどと頷きました。
『エティカ』は幾何学的な証明の手法をもって記述されており、
ときどき、
それって証明になっているか?
と、
疑問に思う箇所がないではないけれど、
嫉妬に関する記述であるとか、上に引用した文章を読むと、
この哲学者も実人生において、
恋に触れ、恋に深く悩んだ人であることが想像され、
それが、記述の方法も含め、
彼のなした哲学と無縁でないことが感じられます。

 

・烏飛び交ふ春暁の明けやらず  野衾