真理へ至るには

 

物理学の概念は人間の心の自由な創作です。
そしてそれは外界によって一義的に決定せられるように見えても、実はそうではないのです。
真実を理解しようとするのは、
あたかも閉じられた時計の内部の装置を知ろうとするのに似ています。
時計の面や動く針が見え、
その音も聞こえて来ますが、
それを開く術《すべ》はないのです。
だからもし才能のある人ならば、
自分の観察する限りの事柄に矛盾しない構造を心に描くことは出来ましょう。
しかし自分の想像が、
観察を説明することの出来る唯一のものだとは言えません。
自分の想像を、真の構造と比べることは出来ないし、
そんな比較が出来るかどうか、
またはその比較がどういう意味をもつかをさえ考えるわけにゆかないのです。
けれども、
その知識が進むにつれて、
自分の想像が段々に簡単なものになり、
次第に広い範囲の感覚的印象を説明し得るようになると信ずるに違いありません。
また知識には理想的な極限があり、
これは人間の頭脳によって近づくことのできるのを信じてよいでしょう。
この極限を客観的真理と呼んでもよいのです。
(アインシュタイン, インフェルト[著]石原純[訳]『物理学はいかに創られたか 上巻』
岩波新書、1939年、pp.35-6)

 

時計の内部をだれも開くことはできないとすれば、
なかの構造をこころに描くしかない、
か。
この場合、
真理の時計職人はいないってことで。
これって、
0.00000000………1は、0と呼んでもよい、
と同じかな。

 

・花冷えや利休鼠の空の下  野衾