悲しいワガメコ

 

小学校の遠足で、男鹿半島の入道崎へ行ったことがありました。
その後、
大人になってからも幾度か訪れていますが、
小学校の遠足のときがたしか初めてで、
そのせいもあり、
記憶に鮮やかに残っています。
バスから降り、
先生の注意を受けてから、
グループごとに海のほうへ向かって歩きました。
秋だったでしょうか。
日本海の雄大な景色を目の当たりにし、
水平線に目をこらし。
グループは次第に乱れ、
それぞれが好きな場所を求めてうろついていると、
遠くから手拭をかぶったおばあちゃんが近づいてきました。
ゆっくり近づいてきて、
「ワガメコいらねがぁ?」
「ワガメコ買ってけにゃがぁ?」
さいしょ何のことか分かりませんでしたが、
何度も何度も、
「ワガメコいらねがぁ?」
「ワガメコ買ってけにゃがぁ?」
子どもだったし、
少ないおカネでワカメを買って帰ろうという、
気のきいたこころもなかったので、
すぐに断りました。
すると、
また別のおばあちゃんがやって来て、
「ワガメコいらねがぁ?」
「ワガメコ買ってけにゃがぁ?」
だんだんイラついてきました。
要らないって言ったのに。
わたしの性格から、
イラ立つこころで断ったはずです。
三人目のおばあちゃんが来たかどうか、までは覚えていません。
けれど、
いま思い返せば、
あれは、寄せては返す波のようであったなぁ、
と。
気のきいた近代的な営業トークなどでなく、
ただただ、
まるで呪文のように、
「ワガメコいらねがぁ?」
「ワガメコ買ってけにゃがぁ?」
あのリアリティに敵うものはなかなか無いのでは、
と思えてきます。
いまも耳に残っているその声に意識を集中していると、
声だけが形を成して、
だんだん悲しくなってくるようです。

 

・祖父の手と祖母の手もあり炭火かな  野衾

 

なんか気になる…?

 

きのうの夕刻のこと。
ゲラの照合
(朱の入ったゲラと、朱の箇所を直したゲラを並べてチェックすること)
をしていたとき、
営業の人間が、
どこの大学か分かりませんが、
電話で話しているのが耳に入りました。
それだけであれば、
別に何ということもなかったのですが、
話の途中、
「そちらの大学は、常時、開いてるんですか?」
という言葉が耳を衝いた。
ん!
ん。ん!?
「常時、開いてるんですか?」
常時、開いてる、
じょうじ、あいてる、
ジョウジ、アイテル、
あ!
ジョージ・マイケル!!
イギリス生まれのワム!のボーカル。
そうだ。あの髭の濃いジョージ・マイケルだ!
常時開いてる、
ジョージ・マイケル。
ふふ。
ああスッキリした。

 

・息を殺し目は寒灯に張り付けり  野衾

 

頑張らずに一所懸命

 

お世話になっている鍼灸の先生との対談を、
春風新聞に収載しましたが、
ふだん施術してもらいながら聞く何気ない先生の話は、
録音してテープ起こししたい
ぐらいに含蓄に富み、
まったく説教臭くないにもかかわらず、
日頃のじぶんの生き方を反省させられることしばしばで。
このあいだは、
ふと、こんなことを洩らされた。
曰く、
どんなに患者さんの数が多くなっても、決して急がない、
アドレナリンの分泌を誘発するような生き方は良くないと感じて、
ひとりひとりの患者さんを丁寧に
一所懸命に診るけれども、
ゆっくり慌てずに仕事をこなすようにしている、
そうすると、
仕事量が多くても、疲れることがない、
翌朝目を覚ました時、
体がどんより重く感じられることがなくなった、云々。
きのうの日曜日、
会社に出向き、
短い時間でしたが、
オンラインによる学会に参加し少し喋りました。
帰りの道々、
鍼灸の先生の発言を反芻。
頑張るは「我に張る」が元。
我意を張り通しては、
目の前のひとも仕事も見失う。

 

・北窓を塞ぎ玻璃なる故郷かな  野衾

 

高校時代の思い出

 

母校が一年に二回発行している同窓会誌の編集部から頼まれ、
陸上部の思い出などを書きました。
コチラです。
あのころをふり返れば、
つい、
北海道生まれの詩人・吉田一穂の「母」という詩にある、
「麗しい距離(デスタンス)」
が口を衝いてでます。
それにつづく詩の言葉は、
「つねに遠のいてゆく風景」
ふるさとは、
室生犀星がいう「遠きにありて思ふもの」であり、
また、
遠ざかりつつ麗しい距離にある一点でもあるようです。
そういう意味では、
経験を通し、
新たに発見するのがふるさとで、
ふたりの詩人の言葉がいま、
静かな音調と韻律で鳴っています。

なお、
リンクを張った同窓会誌の左ページ二段目に、
恩師・一関先生のお名前が「吉見」とありますが、
これはわたしの間違いで、
正しくは「吉美」です。
お詫びして訂正します。
一関先生、ごめんなさい。

 

・北塞ぎ父の仕事の終えにけり  野衾

 

作文について

 

小学生のころ、
先生から「感じたままを書きなさい」と教えてもらいました。
ところが、
感じたままを書く、の、感じたまま、ってなに?
イタイ、サビシイ、オイシイ、クサイ、サムイ、ツメタイ、
それが感じたまま?
先生がいい太鼓、
小武海先生のお腹は太鼓みたいで、
いや、
言いたいことは、たぶん、
そういうことではないんだろうな、
という風で、
作文はとっても苦手、
できるならば避けて通りたい、
そういうジャンルであった気がします。
ふるさと秋田の新聞にこんな記事が掲載されました。
コチラです。

 

・けふ六つ算へて嬉し寒卵  野衾

 

久非其位

 

象曰。久非其位。安得禽也。
(象に曰く、其位に非ざるに久しくす、安んぞ禽を得んや。)

 

自分の処(を)るべき所で無い処に、久しく留まつて居り、
何時までも其処に居つて動かない。
それでは禽獣を得るべき筈は無いのである。
恒といふは、
或る一定の事を守つて動かないのでは無く、変るべきときには変るのが、
本当の恒の道に叶ふといふ事を教へるのである。
正でも無く中でも無い処、
即ち久しく留まるまじき処に留まつてゐては、
終に何の得る所も無いのである。
周易述義には、
学問に就いて、
楊氏・墨子の仁義や、黄帝・老子の道徳や申不害・韓非子の政治の道や、
記誦詞章の学(即ち書物を読んでただそれを記憶暗誦したり、又、
文章や詩を作つたりする学問)などの類を久しく学ぶのは、
皆、此爻に当つて居る、と曰つてある。
(公田連太郎[述]『易經講話 三』明徳出版社、1958年、pp.55-56)

 

肝に銘じておこうと思います。

 

・手袋の指の先なる未知の闇  野衾

 

新しい朝

 

このごろ空をよく眺めます。
歳かな?
それもあるかな。
でも、
子どものころから、割と空を眺めていたような、
今ほどではないにしても。
きのうの朝、
おもしろい形の雲が空一面に広がっていました。
なのに、
かなりの幅で、雲の無い、広い、碧い道が長々と寝そべり、
巨大な掃除機で雲を吸い取ったかのようでした。
おもしろくて、
しばらく眺めていました。
形から、**雲という名称があるのでしょう。
しかし、
リンゴという名のリンゴが無いように、
きのうのその時間だけ見えていたあの雲は、
過去に無く、未来永劫、同じものが現れることは無いでしょう。
似ているところ、
共通したところ、
最大公約数的なところをつかまえて
あらゆるものの名前が付けられていますが、
名前を超えたところに個性があり、
名前を超えたところを、
だれもが日々生きています。
時々刻々、
一瞬も留まることはありません。
歳を重ねると、
いろいろ経験し、
もうだいたい経験し終えた、
なんて気分に陥ることもないではないけれど、
空の雲を眺めていると、
同じ一日は、一日としてないのだと気づかされます。
そんなことを考えているうちに、
掃除機で空白の道をつけられたような
珍しい雲は、
跡形もなくくずれ去り、
まったく新しい形となって、ゆっくり東のほうへ流れていきます。
論語の言葉が重なります。

子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜、

子(し)、川の上(ほとり)に在(あ)りて曰わく、
逝(ゆ)く者は斯(か)くの如き夫(か)、昼夜を舎(す)てず。

吉川幸次郎の訳は、
「過ぎ去る者は、すべてこの川の水の如くであろうか。
昼も夜も、一刻の止むときなく、過ぎ去る。
人間の生命も、歴史も、この川の水のように、過ぎ去り、うつろってゆく」

 

・厨朝割られて二つ寒卵  野衾