新しい朝

 

このごろ空をよく眺めます。
歳かな?
それもあるかな。
でも、
子どものころから、割と空を眺めていたような、
今ほどではないにしても。
きのうの朝、
おもしろい形の雲が空一面に広がっていました。
なのに、
かなりの幅で、雲の無い、広い、碧い道が長々と寝そべり、
巨大な掃除機で雲を吸い取ったかのようでした。
おもしろくて、
しばらく眺めていました。
形から、**雲という名称があるのでしょう。
しかし、
リンゴという名のリンゴが無いように、
きのうのその時間だけ見えていたあの雲は、
過去に無く、未来永劫、同じものが現れることは無いでしょう。
似ているところ、
共通したところ、
最大公約数的なところをつかまえて
あらゆるものの名前が付けられていますが、
名前を超えたところに個性があり、
名前を超えたところを、
だれもが日々生きています。
時々刻々、
一瞬も留まることはありません。
歳を重ねると、
いろいろ経験し、
もうだいたい経験し終えた、
なんて気分に陥ることもないではないけれど、
空の雲を眺めていると、
同じ一日は、一日としてないのだと気づかされます。
そんなことを考えているうちに、
掃除機で空白の道をつけられたような
珍しい雲は、
跡形もなくくずれ去り、
まったく新しい形となって、ゆっくり東のほうへ流れていきます。
論語の言葉が重なります。

子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜、

子(し)、川の上(ほとり)に在(あ)りて曰わく、
逝(ゆ)く者は斯(か)くの如き夫(か)、昼夜を舎(す)てず。

吉川幸次郎の訳は、
「過ぎ去る者は、すべてこの川の水の如くであろうか。
昼も夜も、一刻の止むときなく、過ぎ去る。
人間の生命も、歴史も、この川の水のように、過ぎ去り、うつろってゆく」

 

・厨朝割られて二つ寒卵  野衾