林竹二さんのこと

 

仙台藩出身のキリスト者・新井奥邃(あらい・おうすい)
を知ったのは、
学生時代、
林竹二の『田中正造の生涯』を読んだのがきっかけでした。
また、
林さんの本を読んでいなければ、
ひょっとしたら教師になることも、なかった
かもしれません。
それぐらい、
当時、林さんに、
林さんの書くものに夢中になっていた気がします。
林さんは、若いときにキリスト教に接近し、
日本基督荒町教会の牧師・角田桂嶽に導かれ、洗礼を受けるほどに、
角田に親炙していました。
それがのちにアリストテレスの研究を皮切りに、
プラトンにおけるソクラテスの研究に舵を切りました。
林さんは、
1985年4月1日に亡くなります。
享年78。
墓碑銘は無根樹。
晩年、角田桂嶽について問われると、
穏やかな笑顔で答えられた、というエピソードを、
日向康さんの本で知りました。
林竹二さんのいわば天路歴程、精神の遍歴を考えるとき、
いつもこのことが引っかかっていました。
キリスト教からアリストテレス、プラトン、ソクラテスへ。
ずっと抱えてきた問いですが、
その解決の鍵が、
このたび初の全訳が刊行されたシュライアマハー『キリスト教信仰』
に潜んでいる気がし、
読み始めたところです。
訳者は安酸敏眞(やすかた・としまさ)さん。
シュライアマハーは改革派の牧師の家に生まれ、
自らものちに牧師となった人ですが、
神学者でもあり、
また、
プラトンの全集を初めてドイツ語に訳した人でもありました。
林さんのこころが何を視ていたのか、
何を視ようとしていたのか、
そのことを考えるためにも、
シュライアマハーを読み込みたいと思います。

弊社は、明日30日(水)より2021年1月5日(火)まで、
冬季休業とさせていただきます。
1月6日(火)より通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・人まばら銀杏落葉の賑はひよ  野衾

 

白川さんの遺言

 

『字統』『字訓』『字通』の字書三部作を放った白川静さんが、
亡くなる寸前まで執筆していた字書が、
今年九月に刊行されました。
それが『漢字の体系』
字書の古典といえば、
中国後漢の時代に著された許慎の『説文解字』がつとに有名で、
どの漢和辞典を見ても
『説文解字』に触れていない辞書はありません。
ところが白川さんに言わせると、
『説文解字』はじつに誤りが多い。
それには大きく二つの理由があって、
一つは、
「文字成立当時の資料である甲骨文・金文が地下に埋蔵されたままであった」
こと。
もう一つは、
「漢代の学者には、文化史的な時代の推移を洞察することはできなかった。
人情は古今同じとする考えがあって、
今を以て古を解することの誤りに気づかなかった。
「天地人三才を貫く者は王」とする考え方は、
漢代の天人合一を背景とする解釈で、
古代の王は、ひたすらに天帝に仕えるものであった。」
字書巻頭にある「本書の編集について」から引用しました。
とくに白川さんが、
『説文解字』は誤りが多いことの理由に挙げた二つ目は、
これまでの字書でもたびたび触れられていましたが、
ここにはっきりと記されており、
本文の一文字一文字の説明においても、
説文解字の解釈と白川さんの解釈が並べて記述されています。
このことを踏まえて、
文字を根本からとらえなおす必要がありそうです。
白川さんの遺書として
『漢字の体系』を読みたいと思います。

 

・雪の朝弟と立つ空の峰  野衾

 

感動の王

 

雪の季節になると思い出すのは、子どものころ、
弟と行った近くの山。
のちに町営スキー場となった山で、
見晴らしがよく、
当時は、
ほかに人がいても一人か二人、三人、四人。
その日、
わたしは、祖母におにぎりを作ってもらい、
弟を連れ山に向かいました。
カルビーのかっぱえびせんぐらいはおやつに持ったか、
いや、
予定していたことではなかったし、
そんな気の利いたものはなかったでしょう。
前夜から降り積もった雪は、
どこを見ても、
たっぷりとした厚さに成長し、
絶好のスキー日和と思える日でした。
家から子どもの脚で三十分ぐらいかかったでしょうか。
山の頂上に立てば、
そこはまさに白銀の世界、
雪片がきらきら光っています。
空は真っ青、
子どものころは瞬間瞬間が感動に充ちていましたが、
そのとき山の頂上に弟と二人で立った時間は、
何十年とつづくその後の人生をとっても、
ベスト3にランクインする
輝きの瞬間でした。
圧倒されるほどの快晴の下、
光のかすかな陰影から高低差が推し量られましたが、
目の前に広がる光景は、
ほとんど一枚の大きな柔らかい蒲団のようにも見えます。
大きく息を吸い、吐き、
二度、三度、
それから新雪をゆっくり滑っていきます。
途中から加速がついてきますが、
ふわっふわの新雪は、
客でにぎわうスキー場のゲレンデとは違います。
スキーが停まったところがゴール。
振り向いて上を見上げると、
滑った跡が付いていて、
はじめて山の高低差を体感できます。
感動という言葉をおそらくまだ知らなかったけれど、
体と心の奥底にのこって、
シーズンになると必ず思い出す、
かけがえのない時間。
子どもは、春夏秋冬、感動の王なのだ。

 

・雪の朝弟と吾の山の景  野衾

 

夢と記憶

 

横須賀にある高校に勤めていたころ、
Sさんという国語の教師がいました。
口数はけして多くないのですが、太い渋い声で、
なんとなく信頼のおける先生でした。
Sさんの父親は全国紙の記者だったらしく、
中学から高校にかけて、か、高校時代なのか、
秋田高校で学んだとのことで、
Sさんは、
わたしの高校の先輩にあたることが、
しばらく経ってから分かりました。
秋田高校で学んだことをとても誇らしく話してくれました。
ご自宅にお邪魔し、
奥様の美味しい手料理をごちそうになりました。
勤めていた高校が定期的に発行する紀要に『南方録』
の現代語訳を発表していたはずです。
Sさんは、
茶道部の顧問をされていました。
さて、ここまではわたしの記憶に残る過去の事実ですが、
ここからが夢の話になります。
職員室のようなだだっ広い部屋にわたしは居て、
社長としていくつかのことを、そこに居た人たちに語っていました。
社員もいましたが、
外からのお客さんもいて、
わたしは自説を少し強調して喋りました。
と、
奥に居た二人がわたしの横を通り過ぎ、帰っていくようでした。
ふと見ると、
SさんとSさんの奥様でした。
すれ違いざま、
Sさんの奥様が、
たしか「三浦さんのもの言いだと、
イタリアがものすごく優れていることになるみたい」
と言った気がしました。
わたしの主張がどうも気に入らなかったようです。
Sさんは黙って、
わたしのほうを見ることもなく、
奥様の肘をつかんでさっさと引き上げていきました。
Sさんに挨拶すらできなかった。
なんとなとく、悲しくなりました。

 

・初雪や空の碧さを持ち来る  野衾

 

『BLUE SKY』

 

横浜・日産スタジアムで行われた矢沢永吉の40周年記念ライヴ
のDVDをこれまで何度か見ていますが、
ふと思い出し、
じっくり見てみました。
広島から出てきて横浜で降りたこと。
野毛山の展望台に上って横浜方面を眺めたとき、
三月のこととて、下から冷たい風がさあっと吹き上げてきて、
ほんとうにやっていけるのかと思ったこと、
その後また野毛山に行ったこと、
など、
歌、パフォーマンスはもちろん、
語りも独特で胸に沁みました。
シャウトする「ラケンローに感謝しようぜ」、「ありがとう」
を聴くたび、
このひとは本気でそう思っているんだろうなと。
ライブが終った後のお客さんの表情を見ていると、
みんな永ちゃんが好きでライブを心から楽しんだことが分かります。
何年か前、
NHK紅白歌合戦に、特別枠かなんかで出たとき、
紅白歌合戦のあの会場が一気に
矢沢ムードに切り替わったのを思い出しました。
久しぶりに矢沢節を堪能し、
少し元気になりました。
元気になりたかったのだと思います。

 

・見変へれば怒る要なし日向ぼこ  野衾

 

師走

 

2020年、いよいよ押し詰まってまいりました。
コロナに始まり、コロナに終りそうな一年ですが、
まだその終息はみえていません。
弊社は学術図書を出版している会社なので、
こんかいのこの状況において何をどう考えていったらいいのか、
自社で出した本を精読するなどし、
いろいろ考え、
それを「コロナ後の学術出版社」という文章にまとめました。
このブログにリンクを張ったほか、
主に大学の先生たちに届けたところ、
賛同、共感の声が寄せられましたので、
間違っていなかったかと、
胸をなでおろしました。
考えつづけることが大事のようです。

 

・一晩の眠りののちの日向ぼこ  野衾

 

聊斎志異

 

昭和三十年に修道社から刊行された『定本 聊斎志異』全6巻
のただいま二巻目。
一巻が四百数十ページ。
狐が人間の男と恋をする話、
仙人がでてくる話、
あれ、
これって中島敦の山月記に似ているぞ、
というようなことで、
一篇が短いですから味わいつつゆっくり読んでいます。
ページごとに赤い枠線があり、
本文はもちろん活版印刷。
昭和三十年というと、
わたしはまだ生まれておらず、
モノとしての本の寿命の長さを感じます。

 

・ふるさとは炬燵のなかの中有かな  野衾