だから方言はおもしろい

 

言語の生命が単に感性的なものであったためしは一度もないし、
だからといってそれは純粋に精神的なものでもありえない。
それはつねに身体であると同時に心でもあるようなものとして、
つまりロゴスの身体化としてしか捉えられないのである。
(カッシーラー[著]/木田元・村岡晋一[訳]『シンボル形式の哲学 三』
岩波文庫、1994年、p.221)

 

両親はもとより、
電話で秋田の人と話すときは、秋田の方言で話す、
というよりも、
すぐに方言が口をついて出る。
このごろ思うのは、
方言のニュアンス、イントネーション、アクセントは、
文字では表現不可能だということ。
たとえば「い」一音の豊かさといったら、
計り知れないものがあり、
とても文字には表現しきれない。
物知り顔でえらそうなことを言う人に向かい、
あるトーンと抑揚で
「いいい~~」といえば、
どんな単語よりも、
相手の発言をたしなめ、
冷や水を浴びせることができる。
いまとりあえず「いいい~~」と表記したが、
そもそも表記不能だ。
方言はまさに、
「身体であると同時に心でもある」

 

・町ひそと暮らしの香あり吊りしのぶ  野衾

 

こころの手

 

友人の奥さんが介護施設の施設長として働いており、
新聞の取材に答えた記事を
ネットで読みました。
記事中
「入所者は、家族に会えないことへの不安が健康面に大きく影響する。
面会を禁止にしても、
家族と顔を合わせ、言葉を交わせる場はつくっていく」
との彼女の言葉が紹介されています。
ふかく共感しました。
わたしの両親は秋田で二人住まいですが、
ちかくに父の弟夫婦が住んでおり、
また、
週に一度はわたしの弟があれこれ食料などを買って訪問し、
食事を作ってあげたり、
かゆい所に手が届く世話をしてくれるおかげで、
年齢から来る痛みはあっても、
夫婦仲良く暮らしています。
ありがたいことだと感謝しています。
とおく離れているわたしにできることといえば、
ときどき電話をかけるぐらい
ですが、
父も母も、
わたしの声を聴くだけで喜んでくれますし、
わたしも、
ふたりの元気な声を聴けばうれしい。
家族との触れ合いは、
まず声なのだなと実感します。
声を聴き、
言葉を交わすことは、
いわば、
こころの手のひらに触れるようなもの。
コロナ禍で、
そのことの意味がはっきりしてきたように思います。

 

・雨止んでそろり出番の蟬の声  野衾

 

コロナうず?

 

「コロナ禍」という文字をこのごろよく目にするようになりました。
この「禍」ですが、
白川静『字統』によれば、
残った骨に祈ることがもとの意味のようで、
「禍」の右側「咼」だけで「わざわい」
と読みます。
なぜ残骨に祈ることが「わざわい」につながるのか?
そのことにより、
死霊の呪能を駆使して、
ひとに禍殃(かおう=不幸な出来事)を与えようとするものだから、
ということになります。
また、
「咼」には、
「くぼんだもの、めぐるもの」の意味があり、
したがって、
これにさんずい(氵)が付けば「渦(うず)」になります。
こちらの意味の系統に「鍋」があり、
これは、
金属でできていて、
なかがくぼんでいるもの、
というわけでしょう。
ちなみに「コロナ禍」は「コロナか」

 

・アメリカ詩ゲラのめくりの梅雨湿り  野衾