ゲーテの本歌取り

 

私のメフィストーフェレスも、シェークスピアの歌をうたうわけだが、
どうしてそれがいけないのか?
シェークスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、
言おうとすることをずばり言ってのけているのに、
どうして私が苦労して自分のものをつくり出さなければならないのだろうか?
だから、
私の『ファウスト』の発端が、
『ヨブ記』のそれと多少似ているとしても、
これもまた、当然きわまることだ。
私は、そのために非難されるには当らないし、
むしろほめられてしかるべきだよ。
(エッカーマン著/山下肇訳『ゲーテとの対話(上)』岩波文庫、1968年、pp.176-177)

 

ゲーテはこのように語りながらとても上機嫌だったらしい。
ほかの人の作品をじぶんの作品に取り込むのは、
容易ではないのだろう。
深くその作品を理解していないと、
水と油の関係になりかねない。
引用した箇所のすぐ前でゲーテは、
イギリスの詩人バイロン卿について触れながら、
「実生活から取ってこようと、書物から取ってこようと、
そんなことはどうでもよいのだ、
使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ! と言うべきだった」
とも語っている。
なるほどと思う一方、
それを言ったのが、
凡人でないゲーテであることを忘れるわけにはいかない。

 

・レジ袋転がり宙へ春一番  野衾

 

こころの友

 

ひとり燈火(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、
見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文は、
文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。
この国の博士どもの書ける物も、
いにしへのは、
あはれなること多かり。

 

徒然草第十三段。
徒然草は、高校に入ってまず習う古文だったと思いますが、
語句の意味に終始し、
テストで点をとることにあくせくと、
味わうところまでは到底及びませんでした。
いま読むと、
付き合いのあるあの人この人よりも、
上の文章を書いた昔の人がなつかしく思えてきて、
兼好法師もそのような気持ちだったのかと想像されます。
そう思うのは、
この世のわずらわしさが身にしみ、
嫌気がさしている証かも知れず、
それもまたいつの世も変わらずなのだな
と思うことしきり。
南華の篇は、荘子。

 

・春去ればポニーテールの揺れて過ぐ  野衾

 

個性はあとから

 

秋田魁新報の文化欄「ひだまり」のコーナーに、
「個性はあとから」の題で、
日ごろ考えていることの一端を書きました。
コチラです。
さいごから一つ前のセンテンスに「表現の普遍性」
という言葉を用いましたが、
これは、
いま「ディルタイ全集」の『詩学・美学論集』を読んでおり、
そのなかで、
ゲーテに関しディルタイがつかっていて、
腑に落ちたもの。
こういう機会が与えられると、
ふだんあまり使わないアタマが巡り、
かすみが晴れていくようにも感じます。

 

・哲学書ページ進まぬ目借時  野衾

 

時空を超えて

 

石走(いはばし)る 滝もとどろに 鳴く蟬の 声をし聞けば 都し思ほゆ

 

万葉集3617番。

伊藤博の訳によれば、
「岩に激する滝の轟くばかりに鳴きしきる蟬、
その蟬の声を聞くと、都が思い出されてならぬ。」
横浜から桜木町へ向かう電車のなかでこの歌を読んでいたとき、
ほんの数秒のことだったとは思うが、
ぐわんぐわんとうねるようにひびき渡る蟬しぐれの音を
たしかに聴いた気がした。
ふと目を上げ、
いまじぶんのいる場所と時間を確かめるように。
作者は大石蓑麻呂(おほいしのみのまろ)
天平18年(746)ごろ、
東大寺の写経師として出仕していたことが、
正倉院文書に載っているとのこと。
前後の関係から、
船旅をしてきて久方ぶりに陸上で聴く蝉しぐれだったらしく、
いっそうの感慨がもたげたとしてもおかしくない。
絵でなく写真でなく、
言葉によって、
言葉だからこそ伝えられるものがある。

 

・賑はひの果つる旅宿や霜の声  野衾

 

黒白猫

 

毎朝ソイツは現れます。
その子というにはふてぶてしいからソイツ。
黒と白のブチで、
白い面積の多いのはやさしい
なんてことを書いているサイトもありますが、
ほんとうだろうか。
あんまりやさしそうには見えないけど。
来るとかならずこちらを見、
じっと睨んで二秒三秒、
四秒はいることがない。
それからプイっ。
数歩歩いてそれから腹ばいになり、
間仕切りの板の下をくぐって隣へ消える、
ただそれだけ、
それだけのことなのだが…。
毎日のことなので、
だんだん待つような気持ちになってくる。

 

・梅東風や自転速度の増しにけり  野衾

 

「えらぶ」と「ならべる」

 

伊藤博の『萬葉集釋注』が八に入りました。
歌の解釈がなるほどと腑に落ちる
だけでなく、
子どもの頃からふつうに使ってきた秋田のことばが出てきたりして、
ハッと目をみはることがしばしば。
二重三重におもしろい。
ことばの伝播についても調べたくなります。
編集者の観点からいえば、
一般的な一首ごとの注解でなく、
意味のあるかたまりは歌群としてあつかい、
まずそのかたまりの意味を解き明かし、
そのうえで一首ごとの注解を加える形がとられているので、
なにをえらび、
どうならべるかの手本として読むことも可能。
「えらぶ」「ならべる」
これが編集という仕事の要諦と思われ、
さらに、
そういう見方をすれば、
編集だけに限らない射程の広い営みということになりそうです。

 

・朝(あした)に見夕べにもまた梅の花  野衾

 

声は顯す、言葉は隠す

 

よく見るテレビ番組がありまして、
ときどきそれに登場する女性の言葉が気になります。
なにを語っても、
意味する内容はふつうなのに、
なんとなく、
すべての言葉が嫌味にしか聞こえません。
ふと思い出したことがあります。
亡くなった祖母は、
テレビに歌手の青江三奈が登場すると、
この人は立派な人だ、
と言ってだまってじっとテレビ画面に見入っていました。
その時はどうしてだろうと不思議でしたが、
いま振り返れば、
あれは、
歌を通して、
青江三奈の声を聴いていたのだろうと想像します。
言葉はこころを隠し、
声はこころを顯します。

 

・レジ袋指に食ひ込む余寒かな  野衾