Archives : 1月, 2015

紙の本

 

・街灯の小さき音せり雪が降る

本を読まない子に親が最初に買い与えた本が、
夏目漱石の『こゝろ』と
森鷗外の『山椒大夫』でありましたが、
読もうとする意欲が湧かず、
そのときは
一ページも読んだか読まなかったか。
のちに気になり、
今度は自分の意思で
『こゝろ』を読んだら、
ひとのこころの気持ち悪さに初めて触れたようで、
本の世界に足を突っ込んだ形。
あれからずいぶん時間が経過しましたが、
『こゝろ』を思い浮かべるとき、
読み終えた文庫本の重さが手のひらに甦ります。
それから
忘れられないのは、
『ジャポニカ』と『広辞苑』
あの重さが好かった。
ぱらぱらページをめくるだけでよかった。
のちに平凡社の『百科事典』や
『大辞林』を使うようになりましたが、
始まりはなんといっても
『ジャポニカ』と『広辞苑』で、
あの喜びを何にたとえたらいいものか。
読む楽しさと持つ喜びを超えていたような気さえします。
中学校に入学し
自転車を買ってもらって、
雪解けの道を初めて走ったとき
風が目にしみてか、
うれしくてか、
分かりませんが、
涙が滲んだものでしたが、
それにちかいかもしれません。
重さと手触り感が始まり始まりでした。
紙の本は、
感動の始まりを演出できる
おもしろい媒体だと思います。

・雪積もりあの世へつづく道を踏む  野衾

フォルティシモな豚飼い

 

・大寒に大観呑んだ酒を嘗む

杉田徹さんの『フォルティシモな豚飼い』を面白く読みました。
ぶっ飛んだり、よいよいよいよいと、
かっぽれを踊りたくなるような面白さではなく、
じわりと効いてくる面白さ。
杉田さんは、一九四三年、新潟県生まれ。
今は宮城県志津川で豚を飼っていますが、
写真家でもあり、ご本人が撮った
思わず見入ってしまう写真がいくつも収録されています。
この本は、
「豚飼いになった写真家」杉田さんと
ご家族の物語を記したエッセイ集ですが、
まさに語り物で、
杉田さんの語りの妙に引き込まれ、
眼で追うエピソードを疑似体験しつつ、
心地よい語り「お話」に耳を傾け
杉田さんの思考と思索
のめぐりに歩調を合わせているうちに、
生きること、考えること、また生きることを、
ついつい
考えてしまいます。
それも愉しく。
愉しくをフォルティシモかな?と。
ピアニシモでなく。
例えば「「豚」にフタをしない」は、
ダジャレみたいですが、
まさに生活の場において捉えた
豊かで深い思索と思想であると感じます。
平成の江渡狄嶺みたい。
本の後半、
豚飼いになる前の、
家族ぐるみスペインでの暮らしが語られていますが、
疑問を宝に生きて暮らす杉田さんの時間が、
家族ともどもきらきらと輝いています。
土地の人びとがまたなんとも魅力的。
土地の子どもが杉田さんの奥さんに声をかけます。
「タエ! 何でクローとライは、バカンスに勉強するの!」
クローとライは杉田さんの子どもたち。
そう。今は夏休みなのだ。
日本では、
夏休みでも子どもは勉強します。
と、
「ここは日本じゃないのよ。スペインよ!」
なるほどです。
さてこの本を読みながら、
わたしの気持ちは何度か聖書に向かいます。
「伝道の書」第三章第十一・十二節。
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない」
カメラと宝の疑問を携え旅に出た杉田さんでしたが、
疑問が解け、
答えを得て日本に帰ってきました。
カメラを手放し、
豚を飼うことに決めた杉田さんは、
緑の大地に向い「初対面の挨拶」をします。
「――私の命が果てるまでの一時の間、あなたの懐で思いの丈を尽くして「私」をやらせてください」
思いの丈、フォルティシモ!

・さびさびでや駄洒落云つてる場合でない  野衾

次に読む本

 

・道塞ぎ一月のゴミ収集車

いま読んでいる本が全体の半ば近くになると、
次に読む本のことを考えます。
そのときどきの興味関心に従って読むわけですから、
ひょいひょいと、
あまり考えずに手に取ればいいようなものの、
歯の痛みが四方に散るように、
本への興味も
一つというわけには行きません。
振り返れば、
読んできた本の連なりは、
いわばこれまで経てきた精神の地図
みたいなものでしょうから、
そこから抜け出て読もうとすると、
なんとなく
気にそぐわず、
面白くない。
たまに面白い本だなあと思っても、
空に飛んでった風船みたいにそれっきり。
糸がつながらない。
かと思えば、
人から薦められたり
いただいた本で、
地図をさらに拡げたり、
奥行きを増したりするのに効あるものもあり、
そういうときは、
縁を感じて嬉しくなり、
不思議がりながら、
地図の展開を静かに視ています。

・空紫に一月の旭かな  野衾

秋田のハイデガー

 

・稿成りて窓外見遣る春隣

秋田では「痛い」ことを「イデ」といいます。
例えば「頭が痛い」は「アダマイデ」
「額が痛い」は「ナヂギイデ」
ナヂギは額、
ひたいのこと。
古語に【なづき】というのがあり、
脳・髄を指しますから、
おそらく「なづき」が訛って「ナヂギ」になったのでしょう。
「独鈷(とくこ)をもてなづきをつき砕き」と、
平家物語にでてくるそう。
愛用する佐伯梅友・馬淵和夫編の古語辞典に
ちゃんと書いてある。
独鈷は金属で出来ている仏具の一つで、
両端が尖っている。
方言はまさにことばの宝庫。
また、
秋田方言に濁点がよくつかわれることは、
つとに知られておりますが、
それは疑問を表わす「か?」にも当てはまり、
「か?」は多く「ガ?」になる。
「東京へ行ったことあるか?」は、
「東京サ行ッタゴドアルガ?」
「そうか?」は「ンダガ?」あるいは「ンダテガ?」
ところでこの「ガ?」ですが、
愛情や疑問の強度により
微妙に伸ばされることが間々あり、
上記の例の場合も、
「ンダガー?」「ンダテガー?」と、
すぐになり得る。
ここまで来ると、
秋田以外の方も
そろそろ想像がついたかもしれませんが、
「歯はだいじょうぶ?」「歯が痛いの?」「歯が痛いのか?」を、
秋田弁に翻訳すると、
「歯、イデガー?」ハイデガーとなる。
ドイツ生まれで、
『存在と時間』を著し二十世紀を代表する哲学者も、
秋田弁にかかれば、
歯、イデガー? だもの。
なんとも愉快。

・一日の終りおでんに酒がある  野衾

シンクロニシティ

 

・珈琲店コーヒーを待つ春隣

ただいま編集進行中の『西田哲学から聖霊神学へ』の著者、
小野寺功先生にインタビューを行いました。
なぜ哲学を志したのか、
それに連なる少年のころのエピソードが
とても面白く、
話し言葉でざっくばらんに語っていただきました。
また先生が若い頃、
故森信三氏から、
君の哲学を推し進めるには、
遠野物語と法華経を深く学ぶ必要がある
と示唆されたお話には正直びっくり。
遠野物語を学ぶべきというのは、
小野寺先生のご出身が岩手であることにもよるか
と思いますが、
問題は法華経。
お話を伺いながら、
思わず身を乗り出しました。
なぜならば、
この仕事とは全く別に、
法華経に関する本づくりが今始まったばかりだから。
『釈譜詳節』に次ぐ韓国語からの翻訳書で、
『法華経諺解(ほけきょうげんかい)』といいます。
名の示すとおり、
これは、
十五世紀に韓国語に訳された法華経とその解説書。
今回、世紀を超え
それを現代日本語に翻訳し
出版することになります。
訳者は河瀬幸夫先生。
森信三氏の洞察には驚かされますが、
もっと驚くのは、
法華経がこのところ
なぜか耳目に触れてくること。
先日も、
清水好子さんと瀬戸内寂聴さんの対談で
法華経が話題になっている箇所を読んだばかり。
人生は、
こういうことが、
けっこう起きます。

・公園の樹木の舞台や春隣  野衾

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三浦衛(みうら・まもる) 春風社代表にして自慢大王&悪ノリ大王。体調のいいときは自らを天才と称し、不調の折はちりあくたにも劣るヤツとしょんぼり。

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三浦衛の本


『カメレオン』
 三人ときどき声にならぬ声を洩らし/とろけ とろけ 唾までとばし/クヂるとナメるとネヂるとチョす…(「鳶」) 自在に色を変え、不意に突き刺さる、軽妙なことばの戯れ。秋田方言満載の詩集。本文は金属活字による活版印刷。


『マハーヴァギナまたは巫山の夢』
 三平佐世夫は、千一夜の夢うつつで女と戯れ、印度に旅し、睾丸を抜かれ、鰐を飼い、横浜を彷徨う。言語の崖っぷちを綱渡りする、めくるめく冒険。本文活版印刷に美麗造本を施した平成の大奇書。


『父のふるさと』
 父の目に映じた故郷の風土、ひと、くらし、農事を、愛惜をこめ描きだす。本文は金属活字による活版印刷。「身と蓋函」に納める。


『出版は風まかせ』
 横浜の出版社「春風社」社長が本づくりと会社経営にまつわるエピソードを豊富におりまぜ、創業から10年を振り返る。