紙の本

 

・街灯の小さき音せり雪が降る

本を読まない子に親が最初に買い与えた本が、
夏目漱石の『こゝろ』と
森鷗外の『山椒大夫』でありましたが、
読もうとする意欲が湧かず、
そのときは
一ページも読んだか読まなかったか。
のちに気になり、
今度は自分の意思で
『こゝろ』を読んだら、
ひとのこころの気持ち悪さに初めて触れたようで、
本の世界に足を突っ込んだ形。
あれからずいぶん時間が経過しましたが、
『こゝろ』を思い浮かべるとき、
読み終えた文庫本の重さが手のひらに甦ります。
それから
忘れられないのは、
『ジャポニカ』と『広辞苑』
あの重さが好かった。
ぱらぱらページをめくるだけでよかった。
のちに平凡社の『百科事典』や
『大辞林』を使うようになりましたが、
始まりはなんといっても
『ジャポニカ』と『広辞苑』で、
あの喜びを何にたとえたらいいものか。
読む楽しさと持つ喜びを超えていたような気さえします。
中学校に入学し
自転車を買ってもらって、
雪解けの道を初めて走ったとき
風が目にしみてか、
うれしくてか、
分かりませんが、
涙が滲んだものでしたが、
それにちかいかもしれません。
重さと手触り感が始まり始まりでした。
紙の本は、
感動の始まりを演出できる
おもしろい媒体だと思います。

・雪積もりあの世へつづく道を踏む  野衾

フォルティシモな豚飼い

 

・大寒に大観呑んだ酒を嘗む

杉田徹さんの『フォルティシモな豚飼い』を面白く読みました。
ぶっ飛んだり、よいよいよいよいと、
かっぽれを踊りたくなるような面白さではなく、
じわりと効いてくる面白さ。
杉田さんは、一九四三年、新潟県生まれ。
今は宮城県志津川で豚を飼っていますが、
写真家でもあり、ご本人が撮った
思わず見入ってしまう写真がいくつも収録されています。
この本は、
「豚飼いになった写真家」杉田さんと
ご家族の物語を記したエッセイ集ですが、
まさに語り物で、
杉田さんの語りの妙に引き込まれ、
眼で追うエピソードを疑似体験しつつ、
心地よい語り「お話」に耳を傾け
杉田さんの思考と思索
のめぐりに歩調を合わせているうちに、
生きること、考えること、また生きることを、
ついつい
考えてしまいます。
それも愉しく。
愉しくをフォルティシモかな?と。
ピアニシモでなく。
例えば「「豚」にフタをしない」は、
ダジャレみたいですが、
まさに生活の場において捉えた
豊かで深い思索と思想であると感じます。
平成の江渡狄嶺みたい。
本の後半、
豚飼いになる前の、
家族ぐるみスペインでの暮らしが語られていますが、
疑問を宝に生きて暮らす杉田さんの時間が、
家族ともどもきらきらと輝いています。
土地の人びとがまたなんとも魅力的。
土地の子どもが杉田さんの奥さんに声をかけます。
「タエ! 何でクローとライは、バカンスに勉強するの!」
クローとライは杉田さんの子どもたち。
そう。今は夏休みなのだ。
日本では、
夏休みでも子どもは勉強します。
と、
「ここは日本じゃないのよ。スペインよ!」
なるほどです。
さてこの本を読みながら、
わたしの気持ちは何度か聖書に向かいます。
「伝道の書」第三章第十一・十二節。
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない」
カメラと宝の疑問を携え旅に出た杉田さんでしたが、
疑問が解け、
答えを得て日本に帰ってきました。
カメラを手放し、
豚を飼うことに決めた杉田さんは、
緑の大地に向い「初対面の挨拶」をします。
「――私の命が果てるまでの一時の間、あなたの懐で思いの丈を尽くして「私」をやらせてください」
思いの丈、フォルティシモ!

・さびさびでや駄洒落云つてる場合でない  野衾

次に読む本

 

・道塞ぎ一月のゴミ収集車

いま読んでいる本が全体の半ば近くになると、
次に読む本のことを考えます。
そのときどきの興味関心に従って読むわけですから、
ひょいひょいと、
あまり考えずに手に取ればいいようなものの、
歯の痛みが四方に散るように、
本への興味も
一つというわけには行きません。
振り返れば、
読んできた本の連なりは、
いわばこれまで経てきた精神の地図
みたいなものでしょうから、
そこから抜け出て読もうとすると、
なんとなく
気にそぐわず、
面白くない。
たまに面白い本だなあと思っても、
空に飛んでった風船みたいにそれっきり。
糸がつながらない。
かと思えば、
人から薦められたり
いただいた本で、
地図をさらに拡げたり、
奥行きを増したりするのに効あるものもあり、
そういうときは、
縁を感じて嬉しくなり、
不思議がりながら、
地図の展開を静かに視ています。

・空紫に一月の旭かな  野衾

秋田のハイデガー

 

・稿成りて窓外見遣る春隣

秋田では「痛い」ことを「イデ」といいます。
例えば「頭が痛い」は「アダマイデ」
「額が痛い」は「ナヂギイデ」
ナヂギは額、
ひたいのこと。
古語に【なづき】というのがあり、
脳・髄を指しますから、
おそらく「なづき」が訛って「ナヂギ」になったのでしょう。
「独鈷(とくこ)をもてなづきをつき砕き」と、
平家物語にでてくるそう。
愛用する佐伯梅友・馬淵和夫編の古語辞典に
ちゃんと書いてある。
独鈷は金属で出来ている仏具の一つで、
両端が尖っている。
方言はまさにことばの宝庫。
また、
秋田方言に濁点がよくつかわれることは、
つとに知られておりますが、
それは疑問を表わす「か?」にも当てはまり、
「か?」は多く「ガ?」になる。
「東京へ行ったことあるか?」は、
「東京サ行ッタゴドアルガ?」
「そうか?」は「ンダガ?」あるいは「ンダテガ?」
ところでこの「ガ?」ですが、
愛情や疑問の強度により
微妙に伸ばされることが間々あり、
上記の例の場合も、
「ンダガー?」「ンダテガー?」と、
すぐになり得る。
ここまで来ると、
秋田以外の方も
そろそろ想像がついたかもしれませんが、
「歯はだいじょうぶ?」「歯が痛いの?」「歯が痛いのか?」を、
秋田弁に翻訳すると、
「歯、イデガー?」ハイデガーとなる。
ドイツ生まれで、
『存在と時間』を著し二十世紀を代表する哲学者も、
秋田弁にかかれば、
歯、イデガー? だもの。
なんとも愉快。

・一日の終りおでんに酒がある  野衾

シンクロニシティ

 

・珈琲店コーヒーを待つ春隣

ただいま編集進行中の『西田哲学から聖霊神学へ』の著者、
小野寺功先生にインタビューを行いました。
なぜ哲学を志したのか、
それに連なる少年のころのエピソードが
とても面白く、
話し言葉でざっくばらんに語っていただきました。
また先生が若い頃、
故森信三氏から、
君の哲学を推し進めるには、
遠野物語と法華経を深く学ぶ必要がある
と示唆されたお話には正直びっくり。
遠野物語を学ぶべきというのは、
小野寺先生のご出身が岩手であることにもよるか
と思いますが、
問題は法華経。
お話を伺いながら、
思わず身を乗り出しました。
なぜならば、
この仕事とは全く別に、
法華経に関する本づくりが今始まったばかりだから。
『釈譜詳節』に次ぐ韓国語からの翻訳書で、
『法華経諺解(ほけきょうげんかい)』といいます。
名の示すとおり、
これは、
十五世紀に韓国語に訳された法華経とその解説書。
今回、世紀を超え
それを現代日本語に翻訳し
出版することになります。
訳者は河瀬幸夫先生。
森信三氏の洞察には驚かされますが、
もっと驚くのは、
法華経がこのところ
なぜか耳目に触れてくること。
先日も、
清水好子さんと瀬戸内寂聴さんの対談で
法華経が話題になっている箇所を読んだばかり。
人生は、
こういうことが、
けっこう起きます。

・公園の樹木の舞台や春隣  野衾

北島三郎

 

・冬の朝行ってきますのこゑ響く

秋田の実家のすぐそばに、
北島三郎が好きな叔父が居て、
どれぐらい好きかというと、
居間の鴨居に和服姿の北島三郎の大きな写真(サイン入り)が飾られている。
北島三郎の新しい歌が出ると、
いっしょうけんめい覚える。
歌詞カードを車のスピードメーターのところに置いて、
運転しながらでも歌ってゐる。
スピードはどんどん上がり、
違反にも気づかない。
叔父の前で
北島三郎の悪口は間違っても言えない。
絶対言えない。
わたしも北島三郎は好きなのだが、
好きで、
「風雪ながれ旅」「まつり」など、
カラオケで歌ったりもしたが、
後期の歌は、
人生いかに生くべきかの教訓的なフレーズが多く、
カラオケをやらなくなるとともに、
ほとんど聴かなくなった。
が。
初期の北島三郎の歌は違う。
教訓的でなく人生の儚さが一閃し、
きらきらと輝いている。
以前テレビで、
北島が紅白歌合戦に初出場したときの映像を観たことがあるが、
若鮎のことばが似合う風情、眼の輝きに目を瞠った。
これが北島三郎かと思った。
好きな映画『男はつらいよ』の第一作で、
御前様のお嬢さん冬子に惚れた車寅次郎が、
勘違いの恋に呆けて
鼻歌混じりに歌う歌が
北島三郎の初期の名作『喧嘩辰』(昭和三九年)だ。
「♪ 殺したいほど惚れてはいたが~ 指もふれずにわかれたぜ~、とくらぁ」
わかるなぁ。
これは『喧嘩辰』三番の歌詞の出だし。
♪ 殺したいほど惚れてはいたが~ 指もふれずにわかれたぜ~

・歳時記や手を滑り落つ寒四郎  野衾

女人源氏物語

 

・目覚めても痛みなき身の佳日かな

以前買って積読だったのですが、
源氏関連の書評を書く機会が与えられたのを機に読み始めたら、
面白いのなんの。
巻を措く能わずとはこのこと。
この本、
「源氏物語に登場する女性たちが語る」
という設定で書かれており、
元の話の骨組みは尊重しつつ、
肉付けはいかにも寂聴さんらしい。
何が一番ふるっているかというと、
光源氏が愛した女性たちは基本的に、
源氏と他の女性たちとの交渉を知っていただろうということ。
なぜそれが可能だったかといえば、
血縁関係でつくられた
女房たちのネットワークが張り巡らされていたから。
ここだけの話がここだけに終らないのが世の常。
するとどうなるか。
あっちでもこっちでも、
嫉妬嫉妬が大小のうずを巻き、
まさに
「嫉妬は恋のエネルギー源」
嫉妬あってこその恋なのだ。
ところで。
いろんな女性たちが口を開いて語るなか、
さすが寂聴さんと唸ったのは、
近江の君が語る章。
近江の君というのは、
内大臣(かつての頭中将)の隠し子。
琵琶湖のほとりでのびのび育った少女が貴族の世界に突然引き出され、
窮屈なお屋敷暮らしを始める。
原文でも、どの現代語訳、どの解説本でも、
寂聴さんの女人源氏ほどには書かれていない。
礼儀をわきまえぬぽっと出の
ただの田舎者ぐらいにしかこれまで思えなかった。
それがこの本では、
なんとも魅力的に描かれている。
しかも納得がいく。
田舎の自然の中で大らかに育ち、
大口開いて笑って暮らしていた少女にしてみれば、
連れてこられた世界は別世界。
地球から兎が餅をつく月にいきなり誘拐されてきたようなもの。
「おほほ…」と扇で口を隠し笑うなど、
初めからできぬ相談なのだ。
そんな境遇に押し込められた近江の君を、
寂聴さんは丁寧に描いてゆく。
あと二巻ありますから、
結論めいたことは控えなければなりませんが、
近江の君のこの章があることで、
これは傑作になったと思います。

・大寒やこれがピークと自らに  野衾

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