天才紫式部

 

・音は無し全山しっぽり小ぬか雨

『源氏物語』宇治十帖の最後二帖は手習・夢浮橋。
薫と匂宮の恋の鞘当てに嫌気がさし、
宇治川に入水自殺を図った浮舟は、
川水に流され気を失っている状態で横川僧都一行に助けられます。
その浮舟が
僧都に無理矢理頼み込み出家するまでのくだりが、
手習の帖に懇切丁寧に描かれています。
筆の運び、
その写実の凄みに唸らされ、
思わず、
腹を抱えて笑ってしまう箇所もありました。
僧都の妹尼たちが初瀬へのお礼参りに出かけた折、
八十歳になっている母尼と
これまた年老いた女房ふたりの
大いびきに囲まれ、
「今宵この人々にや食はれなむ」と思い、
浮舟は一睡もできません。
もし入水した折に死んでいたとしたら、
「これよりも恐ろしげなる者のなかにこそはあらましか、と思ひやら」れ、
ついに出家を決意するということになります。
なんて素敵なんでしょう。
この世のはかなさを憂いて、
だとか、
道心極まってとかいうことではなく、
恐ろしい婆ども(失礼!)に
食われるんじゃないかと怖くなり、
地獄に落ちていたら
もっとひどいことになっていたろうと空恐ろしく、
それで出家を、というところが、
好きだなあ。
笑えるなあ。
ここで『源氏物語』は時代を超えたと思いましたね。
うん。
谷岡ヤスジのナンセンス漫画みたいだもん。
またこの手習の帖、
ほかにも笑える箇所がいくつもあります。
打ちひしがれ、
ほとんど物も言わぬ浮舟ですが、
妹尼たちが初瀬へ出かけて一人残され寂しかろうといたわり、
囲碁の盤を持ち出し遊ぼうとした女房がいました。
とても囲碁などできないだろうと思い、
自分が白の石、
浮舟に黒の石を持たせてやったら
浮舟がやたら強くて、
先攻後攻を逆にしても浮舟が勝った。
これってギャグ漫画でしょう。
悲しみに打ちひしがれている人がゲームに勝ってはいけません。
だって、可笑しいじゃないですか。
自殺まで図った人が、
極めてこの世的なゲームをしたらスゲー強かった、
というのは笑いでなくてなんでしょう。
現代語訳をする人は、
この帖をもっと強調すべきではないでしょうか。
ことほど左様に、
やはり原文の凄みというのはあり、
言わずもがなのことながら、
紫式部はたしかに天才なのでした。

・りなぴ来てご長寿お守りいただけり  野衾