なるほど

 テレビ番組「格付けしあう女たち」を見て。
 杉田かおるが「熊田(曜子)はモテるからモテない人の気持ちが分からないんだよ」
 それに対し、モテない(ことになっているキャラクターの)光浦(靖子)が「そっかー。私も魚の気持ちは分からないものなー」とつぶやいたのには笑えた。

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写真付き

 多聞くんが写メールでこの「よもやま」にアップできるようにしてくれたおかげで、カシャカシャ撮っては添付している。お、あんなところに糸瓜、カシャ、お、蕗のとう、カシャ、という具合。本文とほとんど、というか、何も関係ない。でも、気分はどこか繋がってもいるかもしれず、お許しいただくことにして今日もカシャカシャと。ただこのカシャという音だが、クワッシャ! とでもいうのか滑車とでもダジャレてみたくなるというのか、とにかくデカイ音がするものだから、自分で驚き、周りを見まわし、なんとなく悪いことでもしているみたいな気になる。

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気功体験

 この土、日、朱剛先生の指導による「中国禅密気功」集中コースに参加。太極拳のようなゆっくりした動きながら、午前10時から夜7時まで、途中、休憩の時間があるとはいうものの、初心者には相当ハードなものだった。
 蛹動(ようどう)、擺動(ばいどう)、捻動(にゅうどう)、蠕動(じゅうどう)の四つの基本動作を中心にレッスンをする。漢字は難しいが、日本の整体、操体、西式健康法、竹内レッスンなどを思い出しても、基本動作は、前後、左右、ひねりの三つであることを再確認。あとはその応用だ。
 どの動作も背骨を中心に動かすのだが、イメージが大事なようで、ただ物理的に前後左右に動かせばよいというものではない。「意念で気を動かす」ということがさかんに先生の口から発せられるが、それがどういうことなのかが初心者には分わからない。時間をかけ練習していけば、なるほどこういうことなのかという境涯に達せられるものなのかもしれない。
 レッスン中、動作の説明をしながら気功全般に関わる先生の話もあって、面白く聞いた。曰く、文化大革命の頃は、こういう(気功のような柔らかい)動きは禁じられていた(リラックスした柔らかい動きというのは資本主義的なものとみなされていたということか)。ものごとはいろいろな観点から見られるように、気功の観点というものがある。気功は他の運動を排除するものではなく、他の運動の中にも気功があり、それは体にとってよいものだ。反対に、競争競争で倒れるまでやるような運動は決して体にとってよいものではないし、気功の観点から見てよい運動とは言えない。また、例えば、お釈迦さんのような人は、気功の観点からすれば、すぐれた気功師だったと言える。日本語の「落ち着く」はいい言葉ですね。人間はなかなか落ち着けない。座れば立つことを考え、立てば歩くことを考え、歩けば食事のことを考え、食事をすれば仕事のことを考える。いまここに落ち着いてあることだけで気持ちいいいなあ、幸せだなあということがなかなか感じられない、云々。
 参加者のなかには、パソコンを使う仕事で体調を崩したという青年、禅宗の僧侶もいた。
 この気功、ルーツを辿ってみると、仏教や道教ともつながっているらしく、ある深さと広がりを持った健康法のようだ。
 レッスンの初日、終わりに近い時刻、部屋の灯りを落として参加者全員が一箇所に集まり手の平を出し指先から発する気が白く見えたのには驚いた。指と指の間に確かに白いものが現われ、指を動かすほどにゆらゆらと揺れた。座った先生の周りにはうっすらと白いオーラが浮かんだ。ただし、そういうことを、ことさらに強調することを先生は避け、誰にでも気はあって、見えるときは見えるとも話された。人の気と書いて人気とよぶ。

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財布

 朝、紅葉坂にある店に立ち寄り、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し147円を払おうとしたら財布がない。鞄の中身を攪拌するぐらいに探したのに、出てくるのはカード入れや名刺入れ、文庫や捨て忘れたレシート、わかさ生活のパンフレット、手帳、ペンケース、目薬、中国禅密気功のパンフレット、世界遺産黄山/イ県古村群、杭州、新安江、千島湖を巡る2007年度中国気功研修旅行のパンフレット、などなど。財布はやっぱり出てこない。
 困り果てたわたしを見て、店のご主人が「いいですよ。持っていってください。お代は明日でいいですから」と言った。ありがたかった。鞄の中を掻き回しながら、「財布を忘れたのでジュースを返します」と言うのも変だしなと思っていたから、おやじさんの一言は、ほんと嬉しかった。
 財布を忘れたことに気がついた時の気分というのは、なぜかズボンの前のチャック(ある年齢以上の男性はファスナーをこう呼ぶ、はず)が開いているのを指摘された時の気分に似ている。
 かつて戸塚で一番の美女と付き合っていた頃、彼女と港が見える丘公園に遊びに行ったことがある。道を挟んで外人墓地の向かい側にある喫茶店の屋外コーナーでコーヒーとケーキを頼み、いっぱし決めてかかっていたのに、彼女ったら、わたしの前のチャックが開いていることを無残にも指摘した。見ると、アルマーニのズボンのチャックが開いていた。穿いてからここまでずっと開いていたというのか。どんな決めゼリフも瓦解し元の木阿弥。あとは何をしゃべったか、さっぱり思い出せない。

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晴れの日は

 先週金曜日、仕事の打ち合わせで千駄木まで行ってきた。東京駅で横須賀線の電車を降り、大手町まで歩き、千代田線に乗った。約束の時刻までだいぶ間があったから、駅の近くのカレー屋に入って昼食をとることに。小さな店構えながら何やら美味しそうなオーラを発していたので、迷わずに重いドアを開けた。少々暗めの店内はちょっぴり怪しげでますます期待はふくらむ。きびきびしたウェイターが持ってきたメニューを睨み、チキンカレーセットをたのむ。ほどなく運ばれてきたカレーを一口ほおばるや、思わず「うまい!」と叫んでいた。隣のテーブルにいた顔も髪型も内藤やす子似の客が振り向いてわたしを見た。
 食後に出てきたチャイの甘さ、濃さもほどよく、仕事の打ち合わせが滞りなく運んだのはカレーによるところ大だった気がする。
 さて、あんまりうまかったので、一日置いて日曜日、カレーを食べに保土ヶ谷から千駄木まで出向いた。見よ、この元気! 中年とは思えない。そうしたら、前前日にはいなかった利発そうな美人の若いウェイトレスがにこやかに迎えてくれた。ほの暗い店内がパッと明るくなり、フローラルブーケな香りがした、気がした。聞けば、カトマンズ出身で日本に来て一年半になるのだという。目から鼻に抜けるような彼女の一言一句、しぐさの一つ一つが濃厚なチャイみたいで、久しぶりに元気に話している自分に気がついた。恋みたい。まことに、出会いによってひとは生かされる。(クサ)
 今日、知人からメールが届き、応援してますの言葉に胸が熱くなった。夜は小料理千成でいつもの美味しい食事。カウンターにいたおばさん三人連れが話しかけてくる。何ということのない話でも、言葉を交わすことが一日の疲れを癒してくれる。店を出た後、一号線沿いのスナックでカラオケを歌って変えるのが習いとか。
 元気でいこうと思った。

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お笑い

 このごろはテレビを点けるとリモコン片手にかちゃかちゃやってお笑い番組ばかり見ている。東京タワーだとかいう、もこみち君の出るドラマはもちろん、ニュースも見ない。お笑い番組ばかり探して見ているから、少々のことでは笑えなくなった。
 そんななか、18日にやった「爆笑レッドカーペット」に出ていた何とかという(名前忘れた)演歌歌手を茶化したような人の歌は笑えた。♪右から流れてくるものを〜俺はただ〜左へ〜流してやった、みたいな全く無意味な歌詞を演歌調にこぶしをきかせて歌うのだが、聴いているうちに、右から流れてくるものとは何なのかと考えてしまう。しりあがり寿の不条理まんがみたいでありながら、深刻でなく、腹から笑えた。もう一度見てみたい人、に選ばれ出てきて、今度は何をやるのかと思ったら、♪上から落ちてくるものを〜俺はただ〜下へ〜落としてやった、と歌ったのには参った。笑えた。
 もう一人、一遍でファンになったのは柳原可奈子という21歳の女の子。天才。女店員と電車内の女子高生をネタにしていたが、目から鼻に抜ける賢さがほとばしり、テレビに釘付け。大ブレイク間違いなしだろう。

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余白

 東急東横線桜木町駅がなくなって、もうだいぶ経つが、名物のガード下の落書はなくなっていない。
 今回、横浜市が横浜在住の画家たちに呼びかけ、絵を描いてもらうことになった。
 われらが多聞くんも選ばれ、先週1週間みっちり壁画に取り組んだ。その経過報告は、多聞くんのブログに詳しく記されているので、そちらを見てほしい。大きい絵を描くことが画家にとってどういう意味があるのかが分かり興味深い。画家の後ろをスーッと通り掛かり、しばらく歩いた後に引き返し、絵を改めてじっくり見ていた人が5人いたというエピソードも面白い。ぼくも、もちろん見にいった。
 以前からあった落書も今回の公認壁画もそれぞれ個性的ではあるけれど全体的に、なんというか、がっちり組み込まれたブロックみたいなガンダムみたいな超合金みたいな強く頑丈で堅牢な絵が多い。歩きながらずっと見ていると息苦しささえ覚える。文章なら、句読点のない文章。うがった言い方をすれば、人生には句読点もないし余白もないから現実を映しとっていると言えないこともない。余った白なんてないのだ。余白というのは、だから、実際にはないものに付けられた名称で、感じるしかないのかもしれない。ところが、多聞くんの絵は、紙に描いたものも今回の壁画もそうだが、ないはずの余白が豊かに描かれ、余白は描かれるものではなく残りのスペースのはずなのに、描かれていると確かに感じる。そこが凄い。それは、余白のない時間をおくっているぼくたちに画家から贈られたプレゼントだ。いったん通り過ぎて、また戻り、改めて見なおす人が今日は何人いるだろう。

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