気功体験

 この土、日、朱剛先生の指導による「中国禅密気功」集中コースに参加。太極拳のようなゆっくりした動きながら、午前10時から夜7時まで、途中、休憩の時間があるとはいうものの、初心者には相当ハードなものだった。
 蛹動(ようどう)、擺動(ばいどう)、捻動(にゅうどう)、蠕動(じゅうどう)の四つの基本動作を中心にレッスンをする。漢字は難しいが、日本の整体、操体、西式健康法、竹内レッスンなどを思い出しても、基本動作は、前後、左右、ひねりの三つであることを再確認。あとはその応用だ。
 どの動作も背骨を中心に動かすのだが、イメージが大事なようで、ただ物理的に前後左右に動かせばよいというものではない。「意念で気を動かす」ということがさかんに先生の口から発せられるが、それがどういうことなのかが初心者には分わからない。時間をかけ練習していけば、なるほどこういうことなのかという境涯に達せられるものなのかもしれない。
 レッスン中、動作の説明をしながら気功全般に関わる先生の話もあって、面白く聞いた。曰く、文化大革命の頃は、こういう(気功のような柔らかい)動きは禁じられていた(リラックスした柔らかい動きというのは資本主義的なものとみなされていたということか)。ものごとはいろいろな観点から見られるように、気功の観点というものがある。気功は他の運動を排除するものではなく、他の運動の中にも気功があり、それは体にとってよいものだ。反対に、競争競争で倒れるまでやるような運動は決して体にとってよいものではないし、気功の観点から見てよい運動とは言えない。また、例えば、お釈迦さんのような人は、気功の観点からすれば、すぐれた気功師だったと言える。日本語の「落ち着く」はいい言葉ですね。人間はなかなか落ち着けない。座れば立つことを考え、立てば歩くことを考え、歩けば食事のことを考え、食事をすれば仕事のことを考える。いまここに落ち着いてあることだけで気持ちいいいなあ、幸せだなあということがなかなか感じられない、云々。
 参加者のなかには、パソコンを使う仕事で体調を崩したという青年、禅宗の僧侶もいた。
 この気功、ルーツを辿ってみると、仏教や道教ともつながっているらしく、ある深さと広がりを持った健康法のようだ。
 レッスンの初日、終わりに近い時刻、部屋の灯りを落として参加者全員が一箇所に集まり手の平を出し指先から発する気が白く見えたのには驚いた。指と指の間に確かに白いものが現われ、指を動かすほどにゆらゆらと揺れた。座った先生の周りにはうっすらと白いオーラが浮かんだ。ただし、そういうことを、ことさらに強調することを先生は避け、誰にでも気はあって、見えるときは見えるとも話された。人の気と書いて人気とよぶ。

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