過去の体験

 演出家の竹内敏晴さんから新刊『声が生まれる』(中公新書)をいただいたので、休日、さっそく読んでみた。竹内さんの本は『ことばが劈かれるとき』から始まって、レッスンを含めすべて自伝のようなものだから、取り上げられるエピソードは旧知のものもある。しかし、竹内さんのすごいところは、読者がすでに知っているであろうエピソードについて読者に「ああ、あの話か」と思わせないところ。見事というしかない。
 「ああ、あの話」と、ふつうなら読書のスピードが増しそうになるところで、そうはならずに、むしろ居ずまいを正してゆっくりと味わうように読んでいる自分に気づく。読みは深くなり、また、視界が広がるとでもいうのか。ふ〜とたっぷり息を吐き、静かに息を吸って(竹内レッスンみたい!)「おわりに」を読んだら、竹内さん自身がこう書いていた。「過去の体験は、今生きている地点から射る光によって、新しい姿を現わす。」
 わが身を振り返っても、そのときどきに自分でこうだと思ってしたこと、意図せず、理由も分からずにしてしまったこと、いろいろあるけれど、後から後から新しい姿が現われ、うろたえたり慄いたり驚いたり。本当にそうだ。新書サイズながら濃密で、竹内さんの「今」に触れられる素敵な本。ありがとうございました。