余白

 東急東横線桜木町駅がなくなって、もうだいぶ経つが、名物のガード下の落書はなくなっていない。
 今回、横浜市が横浜在住の画家たちに呼びかけ、絵を描いてもらうことになった。
 われらが多聞くんも選ばれ、先週1週間みっちり壁画に取り組んだ。その経過報告は、多聞くんのブログに詳しく記されているので、そちらを見てほしい。大きい絵を描くことが画家にとってどういう意味があるのかが分かり興味深い。画家の後ろをスーッと通り掛かり、しばらく歩いた後に引き返し、絵を改めてじっくり見ていた人が5人いたというエピソードも面白い。ぼくも、もちろん見にいった。
 以前からあった落書も今回の公認壁画もそれぞれ個性的ではあるけれど全体的に、なんというか、がっちり組み込まれたブロックみたいなガンダムみたいな超合金みたいな強く頑丈で堅牢な絵が多い。歩きながらずっと見ていると息苦しささえ覚える。文章なら、句読点のない文章。うがった言い方をすれば、人生には句読点もないし余白もないから現実を映しとっていると言えないこともない。余った白なんてないのだ。余白というのは、だから、実際にはないものに付けられた名称で、感じるしかないのかもしれない。ところが、多聞くんの絵は、紙に描いたものも今回の壁画もそうだが、ないはずの余白が豊かに描かれ、余白は描かれるものではなく残りのスペースのはずなのに、描かれていると確かに感じる。そこが凄い。それは、余白のない時間をおくっているぼくたちに画家から贈られたプレゼントだ。いったん通り過ぎて、また戻り、改めて見なおす人が今日は何人いるだろう。

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