アウグスティヌス讃

 

理性のない動物には、与えられた境遇を思いめぐらすことはできないが、
その動物でさえみな、
巨大な海の怪物からもっとも小さな蛆にいたるまで、
存在することを欲し、
それゆえ可能な限りのあらゆる運動をもって消滅を避けようとしているではないか。
なぜか、樹木も灌木もみな、
見える運動によって滅亡を避けるための感覚を持っていないが、
樹頭の若芽を安全に空中へ伸ばすために大地に根を深くおろし、
それによって養分を吸収し、
そのようにしてそれぞれの仕方で自分の存在を保持しているのではないだろうか。
最後にまた、
感覚だけでなく、
どんな生殖の生命をも持たない物体でさえ、
高い所に昇ったり、低い所に沈んだり、
あるいは中間に浮遊したりして、
その本性にしたがって存在しうる場所で、自己の存在を維持しているのである。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 上』教文館、2014年、pp.572-3)

 

引用した箇所を読んだとき、
マタイによる福音書6章26節のことばを思い出しました。
「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
アウグスティヌスが上の文を書いたとき、
ひょっとしたら、
マタイによる福音書のこの文言を思い浮かべたかもしれない。
そんなことを思い浮かべながらの読書は楽しく。
アウグスティヌスは相変わらず理屈っぽいわけですが、
理屈の底に、
深く静かな情愛が湛えられていると感じられ、
(そういう風景を、初めて読んだときは、見逃していたかもしれません)
たとえば、
ハンナ・アーレントも、この文を読んだのかと、
灌漑も一入で、
やはり、
再読有益なりと言いたい。
ちなみに
「巨大な海の怪物」とは、
旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタン。

 

・着膨れて物思ふ吾は哲学者  野衾

 

文字は文字以前を憧れる

 

のこりわずかとなりましたが、
仕事に関わるものを含め、今年もいろいろな本を読んできました。
なかでも印象にのこっているのは、
『字統』『字訓』『字通』を始めとする、
白川静さんの一連のものでしょうか。
白川さんの本を読んだときに感じる伸びやかさ、広がり、気持ちのよさは格別で、
これって何だろうなと思ってきました。
たとえば、
口偏の漢字の「口」の多くが「口」でなく
「さい(口の字の上の角の縦棒が少し上部に突き出ている。祈りのときに祝詞を容れる)」
であることを、
白川さんはことあるごとに力説していますが、
このことからも知られるとおり、
漢字は、
本来、
呪的なものであると言えそうです。
「呪的」ということばも、
白川さんの本によく出てきます。
その辺りをうろつき、眺めていているうちに、
ふと、
文字は、
白川さんの場合は漢字ということになりますが、
文字以前を憧れているのかな、
ということに思い至りました。
想像は、ますます広がり。
白川さん、楽しかったろうな。
文字以前の膨大な時間、
ことばが、にょろにょろ、にょきにょき、うごうご、たらたら、と~たらり。
「伸びやかさ、広がり、気持ちのよさ」
のもとは、
そこのところと関係していそうです。
白川さんの『著作集』のいくつかは
読んだけれど、
孔子関係、漢字全般に関するものはこれからですので、
来年の楽しみにしたいと思います。

 

・ぎんがぎが玻璃の枯野を眞神かな  野衾

 

何のための勉強

 

東京学芸大学の末松裕基先生から電話がありました。
『春風新聞』第28号のお礼を兼ねてのものでしたが、お礼を申し上げたいのはわたしの方で。
学習院大学の中条省平先生と三人で行った鼎談は、
あとからあとから思い返し、
イメージがそのたびに広がります。
末松先生も、同様の感想を持たれているようでした。
講演に招かれた場で、
拙著のなかの、
たとえば、
諸橋轍次のエピソードを紹介したことを楽しそうに教えてくれました。
諸橋さんが、山形の講習会を終えての帰り、
土地の人が用意した馬に乗って四方の里を見おろしながら進んでいたとき、
ひとりの児童が馬上の諸橋さんを見上げ、
あっかんべをした。
諸橋さんは、
「その児童がかわゆくてかわゆくてたまらなかった。」
そんなエピソード。
末松先生と話をしていて、
わたしも拙著に記したその箇所を思い出しました。
話ながら、
新井奥邃のことばが不意に浮かび。
その場で正確なことばは思い出せなかったけれど、
奥邃の言わんとするところは、
要するに、
勉強は、
謙虚を学ぶためのものであって、
エラくなるためのものではない、ということ。
この世でエラくなるための勉強は、どうやらなんだか尻すぼみ。
諸橋さんの勉強も、
奥邃と同様に、
謙虚を学ばんとするところに最高の意義があった
のではないか。
『老子』の「容《い》るれば乃ち公なり」

諸橋さんは、
幾度も噛みしめたようです。
胸を開いて相手を受け容れることができるか、
そこに智慧が要るのかもしれません。

 

・巾着を揺らし登校冬の道  野衾

 

お腹マッサージ

 

十代の終り頃、なんだかお腹の調子が悪くて医者に行ったところ、
まずはバリウム検査となりました。
その結果を見、
後日、胃と十二指腸の内視鏡検査をすることに。
バリウム検査もそうでしたが、
初めてのことなので、
どんな検査かまったく予想できず、
いまから思えば、
割と、のほほんと、言われるまま診察台に乗った気がします。
そのあとの七転八倒の苦しさと言ったら。
女性看護師に体を抑えられ、なだめられながら、
幾度となく、
オエッ、オエッ、
で、
鼻からも目からも、
これでもかというぐらい涙が溢れ出た。
結果は軽い十二指腸炎。
一週間分だか、二週間分だかの薬を処方され。
そのとき、
医者が言うには、
寝る前に横になった状態で、
お腹に大きく「の」の字を書くようにマッサージするといいよ。
以来、
かなりの期間、
真面目にお腹マッサージを行っていましたが、
大学に入り、
その後就職してからというもの、
お腹の調子を気にすることがとんとなくなり、
しばらくサボっていた時期がありました。
数年前、
内視鏡検査を久しぶりにしたのをきっかけに、
お腹マッサージを再開。
これぞ強化型お腹マッサージ!
いかなるものかといえば、
十代のときに教わったやり方に、
テレビの健康番組で見た方法をも加味し、
へそを中心に、両手で下腹から肋骨の辺りまで縦に、持ち上げるように100回、
股関節の上の辺りを、斜めに、持ち上げるように脇腹まで50回、
そして、
右手による「の」の字を50回、
左手による「の」の字を50回、
ふ~
こんな感じ。
これで、寝る前のセレモニー終了。
これまたわたしの日用常行であります。

 

・風消えて天の下なる枯野かな  野衾

 

『神の国』再読

 

きっかけは、小野寺功先生の手紙でした。
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
に触れ、
「アウグスティヌスの『告白』は面白いが、『神の国』は理屈が多く面白くない
とありました。私は『神の国』で卒論を書きましたが、
あれは最初の「歴史哲学」で、
半世紀以上経過して、やっとその切実さがわかるようになりました。」
という文言があり、
これに目が留まり、赤鉛筆で傍線を引きました。
わたしが読んだ『神の国』は、
岩波文庫に入っている服部英次郎訳のものですが、
2014年に、
教文館からA5判上製、上下二冊、新しい訳で出ているのを知っていましたので、
それを求め積読状態にしていたところ、
小野寺先生から、うれしく、また、ありがたい手紙をいただいた
ことをきっかけに、
先月から、
朝の時間に読み始めました。
訳者が異なることによる印象の違いがあるかもしれません
が、
それよりも、
おそらく、
通勤の行き帰り、
電車のなかで細切れの時間で読むのと、
お気に入りのソファに深く腰を落とし、じっくり味わいながら読むのとでは、
自ずとその意味合いが違ってくるようです。

 

プラトンは、哲学者《フイロソフオス》とは神を愛する者《アマートル・デイ》のこと
であると言っているが、
聖書の中にこれほど輝かしい言葉はほかにない。
そして(プラトンはそうした文書〔聖書〕を知らなかったはずはない
と同意するよう多くの事柄がわたしを導くのであるが)
その中でも最も注目すべきものは次のことである。
すなわち、
神の言が天使によって敬虔なモーセに語られ、
モーセがエジプトからヘブライの民を解放する計画をたてるようにと命じたそのかたの
名前を尋ねたとき、
「『わたしは、在って在る者』である。
『わたしは在る』というかたがわたしをあなたがたのところへつかわされましたと
イスラエルの民に言いなさい」と答えがあったことである。
いわば、その意味は、不変であるがゆえに真に存在しているかたに比べて、
可変的に造られているものは〔真に〕存在しているのではないということである。
プラトンは、
こうした真理を強く支持し、非常に熱心に推賞している。
そして、
こうした真理は、「『わたしは在って在る者』である。
『わたしは在る』というかたがわたしをあなたのところへつかわされましたと彼らに言いなさい」
と言われているこの〔聖書の〕箇所以外に、
プラトン以前の人々の書物のどこかに見出されうるか、わたしは知らない。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 上』教文館、2014年、pp.396-7)

 

18~19世紀のドイツの敬虔主義神学者で、
直感の冴えた人物であったと思われるシュライアマハーは、
プラトンの書物に親しみ、つぎつぎドイツ語に翻訳していきましたが、
その仕事を思い浮かべつつ、
引用した箇所を読み、
いろいろと感じ、また、考えさせられました。
新井奥邃(あらい おうすい)は、
「再読無益なり」ということばを遺しているけれど、
それは、
ある文脈のなかで言われ、
その文脈においては意味のあることばであっても、
読書全般に関してなされた発言ではないはず。
やはり、
本は、再読有益なり、と言いたい。
『新井奥邃著作集』を監修してくださった工藤正三先生も、そう仰っていたっけ。
奥邃先生もきっと認めてくれるでしょう。
『神の国』再読の密やかな、しかし強く、大きな、
もう一つのきっかけは、
教文館発行のシリーズ「キリスト教古典叢書」が、
ことし七月に亡くなられた桂川潤さんの装幀になることです。
桂川さんの仕事を手にとり、
桂川さんの温顔を思い浮かべ、
桂川さんとも対話しながらの読書です。

 

・ポケットのなか拳骨の寒さかな  野衾

 

耳の文化と目の文化

 

このごろ思うところがありまして、
宮澤賢治のものをあれこれ読み返していたところ、
秋田生まれの
田口昭典(たぐち あきすけ)さん
という方の
『縄文の末裔・宮沢賢治』(無明舎、1993年)
という面白そうな本があることをネットで知りました。
さっそく古書で求め、読みました。
書名にあるとおり、
宮澤賢治が縄文の魂を持った詩人、童話作家である
ことを考察したものですが、
いろいろと共感し、
ふかく納得するところがありまして。
唐突ですが、
わたしのいまの問題意識は、
「耳の文化と目の文化」
であります。
縄文時代とそれ以前が「耳の文化」なら、
弥生時代以降は、
現代をふくめ、
基本的に、
「目の文化」ではないかと。
漢字が日本に伝えられたのは、
弥生時代の末期から古墳時代にかけてと言われており、
文字以外にも、
縄文と弥生では、
いくつか対比の視点があるようですが、
文字を知っている、文字を知らない、
という違い(その根底にある自然との付き合い方)
は、
これからの地球環境と、
そこにおけるいのちの営みを考えるうえで、
ほかのこと以上に大きなことのように感じます。
宮澤賢治の詩や童話に頻出するオノマトペと岩手の方言は、
賢治が耳の文化、
縄文の申し子であることの証であると思います。
いきなりですが、
星野道夫さんや畑正憲さんは、
二人とも多くの本を書いていますが、
根本は、
目よりも、耳のひと、
という気がします。
星野さんの愛読書の一つに、
アルセーニエフの『デルスウ・ウザーラ』があり、
生前、
星野さんがこれをボロボロになるぐらい読んでいたというのも、
なるほどと納得しました。
デルスウ・ウザーラは、
ナナイ族の猟師の名前。
それがそのまま作品のタイトルになっています。
弊社からこれまで四冊の本を上梓している小野寺功先生の「大地の哲学」、
梅原猛さんの構想、山折哲雄さんの賢治論、赤坂憲雄さんの「東北学」、
また、ガイア・シンフォニーの考え方と映像、
それらが深い処で交響し、しずかに鳴っているようです。

 

・口開けて鏡に白き歯の寒し  野衾

 

たのしい『和漢三才図会』

 

思うに、野豬《いのしし》は怒れば背の毛が起《た》って針のようになる。
頸《くび》は短くて左右を顧みることはできない。
牙に触れるものはなんでも摧《くじ》き割ってしまう。
もし猟人のために傷つけられ去っていこうとしているときに、
人が野豬をののしって、
「汝、卑怯者よ、どうして逃げて行くのか、引き返せ」
というと、
大へん怒ってすぐに引き返してきて、進んで人と対し勝負を決する。
それでこれを勇猛な勇士にたとえる。
ただ鼻と腋とを傷つければたおれ死ぬ。
(寺島良安[著]島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳[訳注]『和漢三才図会 6』東洋文庫、
平凡社、1987年、pp.67-8)

 

『和漢三才図会』は、
中国、明の時代の王圻《おうき》撰による『三才図会』に示唆を得て書かれた
江戸時代の、
天地万物についての、いわば百科事典。
鍼灸の天才・澤田健が弟子に語ったことばを録した『鍼灸真髄』
のなかで、
澤田先生、『和漢三才図会』を評し、
あのような名著は、
一度読んで済むものではなく、何十回、何百回でも読んで、
学ばなければならない、
みたいなことを語り、
弟子は、
そのことばを緊張した面持ちで聴いたふうでしたから、
それなら、ということで読み始めました。
18巻ありますから、
まあゆっくり。
と、
いたって真面目な書きぶりのなかに、
真面目な書きぶりだからこそ、なんとも滑稽で、噴き出してしまう記述に出くわし、
いい気晴らしになります。
著者は寺島良安。
一説に、
生まれは、いまの秋田県能代市
とのことですが、
同県出身者のわたしとしては、
こんな面白いものを書くひとが先輩にいたということで
誇らしい気持ちになるけれど、
どうも、
はっきりしないところがあるようです。

 

・呆として百年老いぬ冬ぬくし  野衾