梅雨明け間近

 きのうから四谷フォトギャラリーにて開催の「角突き写真展」を観に、夕刻、営業のMさんと一緒に出かける。Mさんは東京女子大学出身。「東京女子大はキリスト教系の大学か。創立者は誰だっけ」「新渡戸稲造です」「新渡戸稲造か。武士道か」「はい。新渡戸の武士道とキリスト教を研究している先生もいました」あくまでもハキハキと返事するMさんであった。「あ、そ。聖書は読んだことあるの」「1、2年生の時、キリスト教学というのがあり、そのとき読みました」「ふ〜ん。勉強で読んだわけか」「はい。三浦さんは聖書を読みましたか」「うん」「どうして読もうと思ったのですか」まっすぐなMさんの質問に答え、聖書を読もうと思ったきっかけやらドストエフスキーの『罪と罰』の話をしているうちに電車は東京駅に到着。エスカレーターに乗り中央線のホームへ。ベルが鳴り、タッチの差で1本乗り過ごす。次の各駅停車の電車に乗り四谷駅で下車。四谷口を出てコージーコーナーのある道を歩くこと7分、目的のギャラリーへ。地下の会場はオープニングに集まった客でごった返していた。ギョロ目の橋本さん、いつもの名調子であいさつをし、8時半、お開き。外へ出ると、むっとした。梅雨はまだ明けない。コージーコーナーで橋本さんからご馳走になり、四谷駅で解散。久しぶりに随分遠出した気がした。

文藝春秋

 ホヤッキーことクボッキーが、きのう、「早稲田文学」のことを書いていたので思い出したことがある。「文藝春秋」。田舎の少年(わたし)が初めてその雑誌を目にしたのは高校生の時。一年生だったと思う。同じクラスの男子生徒がその雑誌を持ち歩いていた。教科書以外にはほとんど本を読まずに義務教育を終えたわたしが、夏目漱石とドストエフスキーを読み、本ておもしれぇ〜なぁ〜と、ようやく感じ始めていた頃だったから、肩までくる長髪をなびかせ「文藝春秋」を持ち歩く彼は、わたしにとってまるで別人種、異星人のようなものだった。ちなみに、わたしのいた中学では、男子生徒は坊主頭が原則だったから、高校に入り、髪の毛がやっと少し伸び始めていたわたしの目に、長髪と「文藝春秋」はセットで驚異の的として焼き付いた。彼、背はさほど高くなかった。それなのに声は低音で、秋田弁交じりでない、ちゃんとした標準語を話していた。友達になりたいとも思わなかった。ただ、遠巻きに眺めていただけだ。体育の時間は体操着に着替えなければならない。「文藝春秋」が気になって、目で彼を探した。いた! 「文藝春秋」を持たない彼は、なりは小さくひ弱そうなのに長髪だけが目立ち、見ていて、なんだか物足りない感じがした。「文藝春秋」は「文藝春秋」を持つことで真っ当になるのかと妙に腑に落ちた。ホイッスルが鳴った。

飛びこみ営業

 アポなしで、いきなり「ごめんください。わたくし、○○社の△△という者です。突然で恐縮ですが、今日は××のお話をさせていただきたくてうかがいました」というのが、いわゆる飛びこみ営業。営業の醍醐味は飛びこみ営業にあるという言われ方もする。
 以前勤めていた会社でこんなことがあった。男だったか女だったかも定かでないが(たしか女だったと思う)、会社に入ってくるなり、いきなり歌い出した者がいた。社員一同、何事かと思って飛び出し、変わった営業に目を丸くした。干物を売り付ける営業だった。丁重にお断りし、帰っていただいた。
 また、ボサボサの頭、ヨレヨレの服を着た男がフラ〜ッと入ってきたことがあった。「三浦、お前の担当だ」と社長に指示され、なんで俺? と思ったが、「はい」とだけ言って、しぶしぶ応対。人を服装で判断してはいけないが、浮浪者かと思った。ところが、四国のとある有名大学の教授で、用件は出版の相談だった。
 紅葉ヶ丘に立つビルの一室にある小社に、いわゆる「変わった営業」の人が来ることは今のところ、ない。「横浜市教育会館」のビル名が一つの敷居になっているのかもしれない。それでも個性は出る。扱う商品やサービスを採用するにしても、断るにしても、一つの出会いには変わりないのだから、気持ちよくいきたいものだ。

とがった消費者

 経済のトレンドを紹介するニュース番組で、コメンテイターが「とがった消費者」という言葉を使っていた。数は少なくても、こだわりを持って物を買おうとする消費者を指しているのだろう。値段は少々高くついても「季節限定」とうたうことで消費意欲を刺激するというのもその例だろうし、最近では、ある特定の場所でしか買えない商品というのも出まわって、それなりに人気があるという。
 インターネットを通じ、居ながらにして世界中の商品をいつでも買える時代になったと思ったら、今度はその反対に、時間と空間が限定された商品に目が行くようになったようだ。1冊1万円、桜木町でしか買えない本というのを作ったら売れるかな。内容にもよるだろうけど、売れないだろうな。

資生堂マキアージュ

 口紅のテレビCM。バーのカウンターに伊東美咲と並んで立っている若い男性が「明日、早いんですか」と伊東に声をかける。「明日、早いんですか」とは何とも微妙な言葉だ。
 シチュエーションとしては、どうもこの二人、付き合っているわけではなく(並んで立っている二人の距離からして)、若い男が美しい女性に惹かれ、その場で初めて声をかけた、ということのようだ。その状況下での「明日、早いんですか」。要するに、時間があったら付き合っていただけませんか、という誘いの言葉なのだろう。それに対して伊東、何と答えたかといえば、イエスでもノーでもなく、「明日、早いんですか」。言葉の意味が分からないというのでもなく、男の言った言葉を繰り返すだけ。男は明らかに誘いの言葉として言ったにもかかわらず、女は、答えの意味性を剥奪させることで男の質問に答える。だから、男の質問に答えたとも答えていないとも言える。意味が宙に浮く。質問をそっくりそのまま男に返したとも受け取れるし、ただつぶやいてみた、というふうにも見える。わずか二十秒のドラマ。ふむ。分からん。というわけで、制作者側の意図にすっかり嵌められてしまったようなのだ。

夏休み

 昼、チキン夏野菜カレーでも食べようかと音楽通りを歩いていたら、近くにある小学校から生徒たちが溢れ出てきた。ランドセルを背負って友達と何やら話しながら帰っていく。にぎやかなこと。そろそろ夏休みなのだろう。成績表はもらったのかな。都会の子供たちの夏休みを想像しても、とんと見当がつかない。
 拓郎の歌に「夏休み」がある。歌詞の中に出てくる麦藁帽子、蛙、絵日記、花火、トンボ、スイカ、ひまわり、夕立、蝉などは、わたしにとっても夏休みのキーワードだった。拓郎のあの歌を聴くたびに、きゅんとなるような、甘酸っぱいちょっぴり切ない感じに襲われる。というか、夏休みには甘酸っぱいちょっぴり切ない思い出がいっぱい詰まっていて、拓郎はそれを巧く表現したのだろう。
 ところで、拓郎は吉田拓郎。でも、拓郎は拓郎で、吉田拓郎とは呼びたくない。分かるよね。

総合目録

 「学問人」という名が付されている小社の総合目録がある。学問人の絵は畏友・長野亮之介に描いてもらったもの。好評を得ている。
 他の出版社との差別化を図る意味もあって、当初から蛇腹式を採用。畳んで折るとポケットに入るサイズだが、広げると特大の世界地図ほどの大きさになる。馬鹿げていて大真面目でウチらしいと思ってきたが、そろそろ限界に近づいている。刊行点数が増えるに従い面積を要し、印刷に適さなくなってきたからだ。いま、新しい「学問人」の最終校正に社員総出で取り掛かっている。蛇腹式としては最後かもしれない。馬鹿さと真面目さの象徴として、なんとしても継承していきたいのだが…。巻物にすることも考えたが、印刷に適さないという意味では同じだし、トイレットペーパー状のものにしたら、嵩張って、もらった人も困るだろう。何かいい知恵はないものか。今回は良しとして、次回までに知恵をひねり出さなくては。