書名

 本のタイトルを考えるのはたのしい。時の経つのを忘れてしまう。企画として上がっていない架空の本まで頭の中にでっち上げ、勝手にタイトルを考えては悦に入っている。
 本のタイトルを考える方法に二つある。第一。内容をぎゅっとしぼってしぼって、さらにしぼって、数滴こぼれるエキスを大事にすくい、それを並べるやり方。これ基本。第二は、しぼらずに、内容はそのままに、その中心に矢を射るやり方。照準が合った矢なら、内容から少々離れていても、矢の方向性とスピードが人のこころをとらえ、矢の向かう先を知りたくなる(はず)。これは難しい。また、上手くいくとは限らない。どちらも内容を的確につかんでいることは前提。

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旅する編集者

 記憶力が並みはずれて悪かったわたしは、どうしても記憶しなければならないことは、文章に就いて、頭にではなく手に覚えさせた。英単語も英文法も英作文もそうして覚えた。参考書をまるごと三度ノートに書き写せば、それなりにテストの点数は稼げた。
 今、編集者として原稿を読みながら校正の手を入れていると、当時を思い出すことがある。そして、あの頃よりも文章に密着し、手に覚えさせるよりも深く記憶し味わっているように思うのだ。
 テムズ川沿いを歩いて旅した人の文章を歩くスピードで校正していると、いつしか著者といっしょにわたしも歩いている。旧約聖書の研究書ならサムエルは眼の前の人だ。
 近視が進み、このごろは老眼も加わって、若いときのようにはいかないけれど、原稿を携えながら著者と旅する仕事はなかなか止められない。そのことで、著者に喜ばれ、読者にまで喜ばれるのだから、ありがたい。

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おみそれしました

 ある夜、小料理千成で食事をし、勘定を払って店を出ようとしたとき、他のお客が金目鯛の煮付を食べていたのを見、つい、「今度は金目鯛の煮付を食べよう」と、つぶやいていた。小声だったから誰にも気付かれないと思ったが、少し恥ずかしかった。
 次に店に行ったとき、いつもなら、わたしの顔を見るなり旬の魚を焼き始めるご主人のかっちゃんが、そうしない。おや? と思い、もしや、と思った。
 だまって見ていると、昨年結婚し、ときどき店を手伝いに来ている長男のお嫁さんに、「それ、三浦さんに」と指示した。やっぱり。おみそれしました。口から洩れたつぶやきの一言を耳にし憶えていてくれて、さっと出してくれるところなんかは、さすが、保土ヶ谷に小料理千成ありと謳われただけのことはある。美味しゅうございました。

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おばさんらしく

 ある大手新聞社の千葉支局から『おばさん! 辺境を行く』の著者を取材したいとの連絡があった。著者も喜ぶだろうし、出版社としてもありがたいのだが、いきなり新聞社から電話が行って驚かせてもいけないと思い、記者の方にちょっと待ってもらうことにして、わたしが先に電話をすることにした。
 ある大手新聞社の千葉支局から、たった今連絡があり、『おばさん! 辺境を行く』の著者に直接会っていろいろお話をうかがいたいそうですと告げるや、実におばさんらしく、「あら、どしましょ」と仰った。声に驚きと喜びが満ちている。こっちまでうきうきしてくる。よかったですねえよかったですねえと共に喜び合い、電話を切った。『おばさん! 辺境を行く』には「あら、どしましょ」のセンスが溢れている。

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 中国禅密気功の朱剛先生の外気功を初めて受けたとき、わたしに向かい手をかざしたあと、先生の第一声が「ムチ打ちをやりましたか?」だった。その言葉がずっと引っ掛かっていた。気の滞りがムチ打ちのそれと共通していたのだろうか。
 一昨年の四月に鎖骨を骨折して以来、気も心もいっしょに折れたみたいになり、医者にかかり、クスリを飲み、鍼灸、マッサージ、整体とあれこれ試し、あわせて関連書も集中的に読んできた。また、西式体操をはじめ、乾布摩擦、爪揉みマッサージなど、体にいいとされることはいろいろやってもみた。このごろは中国禅密気功ということになっているわけだが、何がどう作用したのか、何と何の相乗効果かは分からないけれど、調子が日に日に良くなっている。周りからもそう言われる。ありがたいことだ。ところが、からだ全体が向上しているのに、刺さったトゲみたいにどうも不調の根みたいなものがまだ残っている感じがする。それで、ふと、朱剛先生に指摘された「ムチ打ちをやりましたか?」を思い出したのだ。
 ムチ打ちをネットで調べてみた。出てくるは出てくるは。自律神経失調の症状が、わたしがこれまで体験してきたことと実によく似ている。驚いた。そうか、と思った。
 鎖骨を折ったとき、その衝撃はおそらく、というか、当然、首をも襲ったことだろう。レントゲン写真には現われなくても、アンバランスな状態が痛みの信号をともない今に残っている。朱剛先生は、微妙な気の流れでもって、そのことを鋭く感じ取ったのだろう。

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千成のかっちゃん

 白い手だねー。仕事をしない手だな。おれの手を見てみろよ。
 どれ。わたしにも見せてよ。あら、ほんとだ。それに、なんて柔らかい手。わたしより柔らかいじゃない。
 あっ、あっ、いま、ママの手にさわったな。さわっただろ。いーや、さわった。ゆるしちゃおけねー。えっと、伝票に付けておかなくちゃ。1万円、と。
 仕事によって手も変わるということかしらね。
 そうだな。その柔らかい手は寿司屋にゃ向かねえ。シャリを握ったときにグッと中にめり込んじまうもの。餅は餅屋ってことだな。

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春を告げる香り

 この季節を目で見るより先に香りで気付かせてくれるものがある。沈丁花。名前を知っている数少ない花の一つ。時間に少し余裕があって裏通りなどを歩いているときに不意にその香りがやってきて驚かせられる。立ち止まり香りの主を探す。十分に咲ききってはいないのに香りは濃厚で、強く存在を主張してくるようだ。大学生の頃、仙台で初めてこの香りに驚き立ち止まった記憶がある。秋田では沈丁花にまつわる思い出はなく、雪解けの濡れた土が乾いてくると、春だなあと心が沸き立った。

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