マイルス・デイビスのCDで一番のお気に入りはと訊かれたら何と答えるだろうか。オーソドックスに『カインド・オブ・ブルー』? 村上春樹も好きだという『フォー&モア』? 地底を揺るがした、なんていうキャッチコピーも確かあったはずの『ビッチェズ・ブリュー』? 日本の聴衆のド肝を抜いた『パンゲア』? それとも、ちょっと逸れて『イン・ア・サイレント・ウェイ』? 『オン・ザ・コーナー』あたりだろうか。
わたしの場合は、だれが何と言おうと『ダーク・メイガス』。マイルス・デイビスの何たるかも知らずにジャケ買いしたレコードを今はCDで聴いているのだが、最初はホントに、ナンダコリャ〜!!だった。その後、マイルスという人はカッコいい音楽をやっている人だと思うようになって、そうしたら、中でも一番なのが『ダーク・メイガス』ということになったのだから好みというのは分からない。こっちが元気なときに限るが、むちゃくちゃ聴きたくなるときがある。思い出や明日の高望みや酒に溺れたことなどひとまず横に置いといて、ただただ禍禍しい音の洪水に浸りたくなる。貘さんみたいに空でもひっかぶって不貞寝したくなる。
GWが終り、今日から仕事。しかも月曜日だし、きっちり1週間働かなければならない。楽しかった思い出に浸っている場合ではない。のだが、ほんの少しだけ。
山里で食べた山菜はやはりうまかった。シドケ、アイノコ、コゴミ。ゆでたり天ぷらにしたのを、ふつうは醤油をかけたりマヨネーズをつけたり、タレにつけたりして食べるところを、青青とした色にひかれ、何もつけずに食べた。シャキシャキとした歯ごたえとともに、山の土の香りとでもいうのか、少々苦味のある独特の味が口中にひろがる。山の幸、気が満ちているようでもあった。アイノコが一番と思っていたが、今回は、地元で山菜の王様と呼ばれているシドケを堪能した。
長田弘さんの本にそういうタイトルの本があって、むかしに読んで、いい本だったと記憶しているが、どのようによかったのか忘れてしまった。でも、タイトルのとおり、深呼吸はどうしたって必要だ。
イライラがつのったとき、わけのわからない不安に襲われたとき、からだとこころがかたまっているとき、パソコンとにらめっこしながら情報の海に溺れそうになったとき、息が浅くなったとき、目を閉じて大きくながくゆっくりと息を吐く。はぁ〜〜〜〜〜。吐ききる。そうすると下っ腹に息がふわっと流れこんでくる。沁みてくる。10回やる。ゆっくり目を開ける。目のピントも心なしか合ったような気がする。午前と午後1回ずつ、息がつまらないように深呼吸をする必要がある。
初めて子供を
草原で地の上に下ろして立たした時
子供は下ばかり向いて、
立つたり、しやがんだりして
一歩も動かず
笑つて笑つて笑ひぬいた、
恐さうに立つては嬉しくなり、そうつとしやがんで笑ひ
そのをかしかつた事
自分と子供は顔を見合はしては笑つた。
をかしな奴と自分はあたりを見廻して笑ふと
子供はそつとしやがんで笑ひ
いつまでもいつまでも一つ所で
悠々と立つたりしやがんだり
小さな身をふるはして
喜んでゐた。
千家元麿さんの「初めて子供を」という詩。わたしは千家元麿さんの詩を読んだことがないから、こういう素敵な詩があることも知らなかった。谷川俊太郎さんの『「ん」まであるく』のなかの「理由なき喜び」というエッセイのなかで紹介されていた。千家さんの詩を紹介しながらの谷川さんのエッセイがまた素晴らしい。
きのうは、これまでの天気がウソのように晴れ渡り、風も早五月の風かと思われるぐらいの爽やかさ。今日は、さらに。いいなあ、気持ちいいなあと、つい、気功教室の先生の口調になっている自分に気づく。
午後、福岡のコール先生から久しぶりの電話。なにやら面白そうな講義の計画があるらしく、楽しそうな先生の口調に惹き込まれ、前のめりになって聴いていた。『新井奥邃著作集』では苦労を共にした仲だけに、弾む声を聴くのはうれしい。奥邃関連のプロジェクトも始動するらしい。たのしみ!
などと書くと、いろいろ差し障りがありそうだが、わたしの個人的体験からそう思う。
鎖骨骨折してからこっち、寝転がってテレビを見る時間がそれまでと比べ格段に多くなり、治癒してからもクセが抜けず、ずるずると悪癖を重ねてきた。どうもこのごろ遠くのものがかすむなあと感じはしても、歳も歳だからしょうがないかと思っていた。
なんでテレビのことに思い至ったのか、今となっては分からないけれど、横になってテレビを見ているのが目に悪いのではないかと気づき、テレビを見るのを止めた。そうしたら次の日、外へ出て景色が全然違って見えるではないか。驚いた。おそらく、寝転がって見ていたのが良くなかったのだろう。ふつうにすわってテレビを見ている分には、タテのものをタテとして認識する。寝転がって見るということは、ヨコのものをタテとして認識する必要があるから、目も脳も疲れるのではないだろうか。あくまでもシロウト考えにすぎないけれど、外の景色が違って見えたのだからしかたがない。
いつも頭を悩ますのは本のタイトル、定価、刷り部数。これを売上を左右する三要素と呼ぶ。(わたしがそう呼んでるだけだけど)このごろは意識して定価を下げ、その分、部数でかせごうと思っている。定価×部数の合計金額が同じでも、それが読者に喜んでもらえるものであれば、定価を抑え部数を伸ばしたほうが、それだけ多くの人に知ってもらえることになるわけだから、できるならこちらの選択肢を択びたい。功を奏してか、このところ新刊の売れ行きが好調だ。気をつけなければならないのは、増刷のタイミングだ。それまで売れていたのにどういうわけか、誰かがどこかで意地悪でもしているかのようにぴたりと止まる。頭を悩ますところだ。
定価と部数の相関関係とならぶ第三の要素がタイトル。タイトルが大事なのは言わずもがなのことだけれど、ここに来て、定価、部数、増刷のタイミングなど、考慮すべき要素との微妙な関係をさらに考慮したうえで、タイトルの設定もさらに磨きのかかったものにしなければならないと思っている。