・坂上より佳きひと来り更衣
セコい東京都知事のニュースが、
呆れから笑いへ転化したきょうこのごろ、
みなさまいかがお過ごしでしょうか。
えーーっ、
またーー!!
というような反応は
はや通り越し、
今はただ苦笑あるのみ。
この変化をみずからに顧み、
日々の校正の仕事もそうであるなあと。
むかしは
ぶつぶつ不平を漏らしながら朱を入れたものでしたが、
いつのころからか、
そんな声も聞かれなくなり、
黙々とこころの内に怒りを発しつつ、
おもては坦々と
お蚕さんが桑の葉を食むようにページをこなすようになりました。
成長したのか、
老化したのか、
きっと老化したのでしょう。
疲れはますますひどくなり、
こないだ左の膝株をしこたま机の角にぶつけ、
危うく皿を割るところでした。
やれやれ。
あー痛かった!
それほどに、
文章のねじれを直すのは疲れます。
こんな日は、
三波春夫でございます。
家に帰って冷蔵庫から缶ビールをだし、
CDプレーヤーに
三波春夫のベストアルバムをセッティング。
うん、
これでよしと。
ちゃら~~ん! こんぺーでーす!
ではなく、
三波春夫です。
サク、サク、サク、サク、サク、サクー、
せんせー、
おうっ、蕎麦屋かああ、
ビール旨いなあ。
・気にかかる短き袖や更衣 野衾
・トンネルを抜けて濃くなる緑かな
連句のことを思っている今日このごろでありますが、
細かいルールは、
そのうちだんだん覚えるでしょう
ぐらいな気持ちで、
いちばん気に入ったのは、
滞ってはダメ! ということ。
あいだに一句置いた二つの句の関係を
「打越し(うちこし)」
というそうですが、
打越しからできるだけ「転ずる」ことが
連句では求められるようです。
新しい世界を切り開くことが大事であると、
深沢眞二先生もおっしゃっています。
苦しいこと、
つらいことから脱けでて新しい地平へ、
ということはもちろん難しいですが、
心地よい快の時空から脱けでることもまた難しく。
まさに人生そのもの。
・捨てられぬものをながめて五月かな 野衾
・青葉木菟驚ゐている貌であり
鈴木漠さんの『連句茶話』を読んだことをきっかけに、
ただいま
深沢眞二さんの『連句の教室』
を読んでいますが、
これがまたとても分かりやすく面白い!
深沢さんは、
和光大学で実際に
学生たちと連句をつくっておられる方。
臨場感たっぷりな報告がなされ、
ページを追うごとに
ゆっくりだんだんと連句の世界にひかれていきます。
「ゆっくりだんだんと」
はとても重要。
こんなにめんどくさいルール(=式目)
を
覚えなくちゃならないんだったら、
俺なんかとてもとても、
となっちゃいますから。
それについて
深沢さんはこう書いています。
「連句にはちょっとややこしいルールがありますが、それは
豊かな想像力を導くために過去の作者たちがあみだした経験則」
そうなのか。
最初からあったものじゃなく、
時間とともに
だんだんとできてきたもの、
豊かな想像力を導くために…。
だとすれば、
急いで覚える必要はないのかもしれません。
実際すぐには覚えられないし。
紙上の学生さんたちに交じってぼちぼちと。
『連句の教室』のサブタイトルは、
「ことばを付けて遊ぶ」
ひともことばもポツンポツンで、
土筆みたいになってしまっている現代ですから、
ひとに寄ってみる沿うてみるのに、
連句はいいかもしれません。
・力なきあぶく破れて湯に一人 野衾
・知らず知らずここまで来たる薄暑かな
幸田露伴の『評釈 芭蕉七部集 冬の日』を読んでいましたら、
俳句の俳は歪につながる
とありまして、
歪は歪曲の歪だなあ、
てことで、
思い出したのが『連句茶話』
著者の鈴木漠さんが「古い毛や」
もとい、
「古池や」の句について、
目から鱗の記述をされていたからです。
「古い毛や」
もとい
「古池や」(しつこい!)
といえば、
いわずと知れた松尾芭蕉の有名な句でありますが、
かわずは古池に飛び込んだか
飛び込まなかったか、
なんて
いろいろ解釈がありそう、
いや、
ありまして、
わたしも何冊か読みましたけれど、
それはともかくとして、
鈴木さんによれば、
かわずといえば、
古来よりカジカガエルを指し、
谷川の岩間に棲んで美声を発するのだそうです。
わたしも、
田舎の山奥で聴いたのかもしれませんが、
これがそうだと知って聴いたことはありません。
谷川を流れているのは清水、
だから、
かわず(蛙)が飛び込むのは
常識的には清水、
それが清水でなく古池としたところがミソというかキモで、
滑稽味を重んじる俳句ならではであると。
合点がいきました。
そういうことも教えてもらった『連句茶話』
わたしの書評が
今週発売号の『図書新聞』に掲載されますので、
よろしければどうぞ。
・黒々の好物につく金の蠅 野衾







