鈴木重雄さんの『幽顯哲学』には、
『古事記』を踏まえながらの思索が縷々つづられていますが、
日本語についての、とくに、
漢字を知る前の日本語にまでさかのぼる考察がおもしろく、
ほんとかなあ、
と、うたがわしい節をも感じながら、
それでも、つい読みすすめてしまいます。
一般可能的のもの(宗源)が現実に特殊の形相にて顕はれたとき其の顕相のことを事
又は物といふのである。
事と物との観念上の異同については第五章第一節に述べる。
宗源より形相の顕はれることを事なるといふ。
なるは生るとも成るとも書くやうに生成の義である。
事成るは異ると同じ語声である通りその意味も亦同じであつて、
生成を一方よりみて事成るといひ他方よりみて異るといふのである。
但し此両方面は離しては何れも立するを得ざる相関関係にあつて
事成れば必ず異り、
異るために事成ることができるのである。
凡て事物の存在はこの二義により始めて説くことができるのである。
言語も事の一であり物の一である。
言語を何故に草木土石などと等しく事物のうちに入れるかといふに、
心のうちにあるものの外に顕はれた形相とみる
からである。
但し草木土石などは直に生成限界に達する事物と認められるが
言語は之に異り尚生成の前途あるものと認められ、
換言すれば生成能力の優れて豊かであるものと認められる結果、
後には他の事物とは異る取扱ひを受けるやうになるけれども、
宗源より顕はれたる形相であるとの根本思想には変りはない
のである。
さうして上代に遡れば遡るほど言語と他の事物との差異は希薄であることは此の際
特に注意する必要がある。
後世には言語は人間の専有と思はれるけれども
神代では岩の根木[ママ]の株草のかき葉に至るまで能く物云ふとある通り
之等も言語能力を有すとみられた程であるからである。
(鈴木重雄『幽顯哲学』理想社出版部、1940年、p.336)
ところで『聖書』「マタイによる福音書」15章16-18節に
つぎのようなことばがあります。
イエスは言われた。
「あたたがたも、まだ悟らないのか。口に入るものはみな、腹に入り、
外に出されることが分からないのか。
しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。」
もちろん、すぐの比較は無理ですけれど、
顕現としてのことば、ということを考えるときに思い出すことばです。
内にある見えないものが言葉となって外に現われる
という発想に、
共通したものを感じます。
・習いての葦は角ぐむ音楽室 野衾