わたしの読書遍歴をふり返るときに、夏目漱石さんの『こゝろ』は外せません。
衝撃があまりに大きく、
その度をじぶんで計れないぐらいでありまして、
なので、
こころに関することを目にすると、
どのジャンルの本でも、
つい、目が行き、くり返し読むことになります。
「くるくる」は「ころころ」に変る。古事記の二神の国土修理固成の条に
「塩許袁呂許袁呂邇書鳴而《しほこをろこをろにかきならして》」引上げ給ふときに
游能碁呂島《おのころしま》が成つたと述べてあるが、
その許袁呂許袁呂はころころである。
この語は雄略記の三重采女の歌にもある、
「瑞王盃《みづたまうき》 浮し脂落ちなづさひ みな許袁呂許袁呂に
是《こ》しもあやにかしこし」。
許袁呂許袁呂は動きめぐる貌をいふ。
游能碁呂は己《おの》許呂であつて神意に依らず自意に基いてできたゆへ斯く名づけ
神の子に数へぬのである。
ころころは更に「こりこり」となり凝集の意を表はす。
ころころは主として巡り動く貌《さま》をいひ
こりこりは主として動き巡りの集結主格のことをいふ。
「こころ」はこりこりの約まつた語であつて
上代人は流動作用の凝集点即ち中心を心と観念したのである。
幽顯めぐりの核といふ意である。
それゆへに心は単なる流動でもなく又単なる静止でもなく流動の中点
といふことである。
(鈴木重雄『幽顯哲学』理想社出版部、1940年、pp.440-441)
ずっところころ転がっているわけではなく、かといって、止まっているわけでもない。
ころころ、っと行って、ちょと止まる、
で、また動く。
つねに動いていくところの中心。
それが「こころ」。
引用した箇所の後ろには、
「要するに上代の心の観念は流動の中心といふ義である」
の文言も見える。
また、
「游能碁呂は己《おの》許呂であつて神意に依らず自意に基いてできたゆへ
斯く名づけ神の子に数へぬ」
というのも、
腑に落ちる気がします。
・自転車の五段切り換え春隣 野衾