いっぽうに「かみもほとけもあるものか」という考えがあり、
「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん」
という孔丘さんのことばもあります。
また亡くなった方の魂が蝶になったのを見たという人は、一人二人ではないようです。
こたえのない永遠のなぞ、と言っていいかもしれません。
ちょくせつ謦咳に触れたことはありませんが、
学生のころから本で知り、
わたしが教師になることのきっかけにもなった林竹二さんは、
ソクラテスさんの、
とくにプラトンさんにとってのソクラテスさん
をずっと考えておられた方でしたが、
墓碑銘は「無根樹」だそうです。
林さんは、
若いときにキリスト教に親近し、
角田桂嶽(かくたけいがく)さんから洗礼を受けたことを、
日向康(ひなた やすし)さんの『林竹二 天の仕事』で知りました。
そんなことを思い出したり、
つらつら考えたりしながらプラトンさんの「パイドン」
を読みました。
「それは、いったいどのような性格のことを言っておられるのでしょうか、
ソクラテス」。
「たとえば、食いしん坊で、ふしだらで、酒好きといった生活を習いとし、
こうしたことによく注意しなかった人々は、
ろばの種族だとか、そういったたぐいの動物たちの種族のなかに入ってゆくのが
ありそうなことだろう。そうは思わないかね」。
「まったくありそうなことですね、おっしゃることは」。
「これに対して、
不正や独裁や略奪を好んで選んできた者たちは、
狼や鷹や鳶の種族のなかに入ってゆくだろう。
それとも、
どこかほかにこの種の魂たちの行きつく先がありうる
とわれわれは主張したものだろうか」。
「まちがいなく、それらの種族のなかに入ってゆくでしょう」
とケベスは言いました。
「ところで、ほかの者たちもまた」
とあのかたは言いました、
「その行きつく先は、それぞれが自分たちのしてきた練習との類似に基づいて
向かうようなところだというのは、もはや明らかではないだろうか」。
「もはや明らかです、言うまでもありません」
と彼は答えました。
「では、これらの人々のうちでも」
とあのかたは言いました、
「最も幸福な者たち、そして最も善き場所へ赴く者たちというのは、
通俗的で社会的な徳を心がけてきた人々ではないだろうか。
まさにそのような徳を彼らは節制とか正義とか呼んでいるのだが、
そうしたものは哲学や知性なしに、
習慣や練習から生まれてくるものなのだ」。
「いったいどうしてそういう人々が、最も幸福なのですか」。
「ほかでもない、
そのような人々はきっと、ふたたび同じような、社会的で従順な種族、
たとえば、たぶん蜜蜂とか、雀蜂とか、蟻とかの種族へと至るであろうし、
また、
ふたたび前と同じ人間の種族のなかに入ってゆき、
彼らから品行方正な人間が生まれ出ることも、ありそうなことだからである」。
「ありそうですね」。
(プラトン[著]朴一功[訳]『饗宴/パイドン』京都大学学術出版会、2007年、
pp.238-239)
ここのところを読み返すと、
それではソクラテスさんの魂はどうなのだと考え、質問したくなります。
哲学や知性なしに、習慣や練習から生まれてくる徳を
通俗的で社会的な徳と呼ぶソクラテスさんは、
そういう人びととも違っていることになりそうですし、
違ってもいたようです。
そういう疑問を持ちながら読みすすめていくと、
「パイドン」はいよいよ佳境に入り、おもしろくなります。
それはともかく。
上で引用したような対話を親しい人としたあと、
ソクラテスさんは粛々と、毒人参を食べ、足のほうからだんだん重くなり始め
からだが麻痺して死んでゆく。
その姿を目の当たりにしたプラトンさんの衝撃は
いかばかりだったでしょう。
うがった見方をすれば、
その衝撃が、
その後のいわゆる「哲学」を産んだとも言えそうです。
それはまた林竹二さんの抜き差しならぬ問題でもあったでしょう。
「天国への道普請」
ということになるでしょうか。
・金兵衛の婆さまのそら若菜つむ 野衾