偉くなくとも正しく生きる

 

中公クラシックスの『ソクラテスの弁明 ほか』には、
「ソクラテスの弁明」「クリトン」「ゴルギアス」の三つが収録されています。
下に引用した文章は、
「ゴルギアス」に登場するカリクレスさんに対して語る
ソクラテスさんのことば。
カリクレスさんは、
新鋭の政治家であり、ゴルギアスさんは、
カリクレスさんの家に泊まっているという設定になっています。

 

人は、自分が不正を受けることを警戒するよりも
不正をはたらくことのほうを警戒して避けなければならぬ。
人間がなににもまして心がけねばならぬのは、
公私いずれにおいても、
すぐれた人間だと思われることではなく、
じっさいにすぐれた人間であるということだ。
しかし、
もし人がなんらかの点で悪しき人間となったならば、
かならず懲らしめを受けなければならぬ。
そして、
そのことこそは、
正しい人間であることについで第二番目に善きことなのである。
すなわち、
懲らしめられて罰を受け正しい人間となることが。
また、
あらゆるおべっかは、
それを向ける相手が自分自身であれ他人であれ、少数の人間であれ大勢の人間であれ、
すべてこれを避けなければならぬ。
そして、
弁論術もこのように、
つねに正しいことに役だてるためにこそ用いなければならぬ。
他のすべての行為と同じように。
されば、君よ、
このぼくの言うことにしたがって、わが目ざす方へと、
ともについて来たまえ。
その目標にたどり着いたならば、
君は生きているあいだも、この世を終えてからも、
きっと幸福にすごすことができるだろう。
それは議論が示しているところなのだ。
そして、
もしだれかが君を愚か者よと軽蔑するなら、軽蔑させておくがよい。
侮辱を加えたいとだれかが思うのなら、
勝手に侮辱を加えさせるがよい。
また、
ゼウスに誓って、
例の不名誉な一撃を君にくらわせるというのなら、君よ、
心を安んじてその一撃を受けたまえ。
もし君が徳をおさめて真に立派ですぐれた人間となっているならば、
君が受けるそのような仕打ちは
なんら恐るべきものではないのだから。
(プラトン[著]田中美知太郎・藤澤令夫[訳]『ソクラテスの弁明 ほか』
中公クラシックス、2002年、pp.475-476)

 

むかし『天才たけしの元気が出るテレビ』という番組に、
エンペラー吉田というおじいちゃんが登場し、
首を左右にふるわせながら、
音吐朗朗
「偉くなくとも正しく生きる。これが私の信念でございます。」
と発しては、
総入れ歯がガバっと飛び出る、
というシーンを見、
見るたびに腹をかかえて笑ったものでした。
しかし、
いまあのシーンを思い出して、
なつかしくはありますが、笑う気になれません。
「偉くなくとも正しく生きる」
は、
偉い人間だと思われること、
ではなく、
てっていてきに正しく生きることのほうがだいじなのだ、
という切なる願いが
そのことばに籠められていると思われるからです。
それはまた、
カリクレスさんを相手に語るソクラテスさんのことば、
またそれを淑しとするプラトンさんの心情に響いているとも感じられます。
じつに清々しいことばです。

 

・枝たわませ飛び立つ鶯の空  野衾