ギリシア人にとっての「神」

 

中公クラシックスの『ソクラテスの弁明 ほか』につづいて、
京都大学学術出版会からでている西洋古典叢書のなかの一冊『饗宴/パイドン』を。
訳者は朴一功(ぱく いるごん)さん。
巻末の充実した解説にギリシア人の神観念に関する記述があり、
目をみはりました。

 

『饗宴』を読む場合にむしろ問題となるのは、
「恋」を意味する「エロース」と、それの神格化である「恋の神エロース」との関係
であろう。
医者のエリュクシマコスの提案を受けて、
上座から下座へと、座っている順番に参加者たちは、
恋の神エロースを讃えることになるが、
恋はわれわれの日常的な経験であっても、恋の神はそうではない。
両者の間にはどのような関係があるのだろうか。
これは『饗宴』全体にかかわる問題であり、
またソクラテス、プラトンの哲学にもかかわる問題である。
そもそもギリシア人にとって、
「神」とはどのような存在なのであろうか。
この問題への最良の接近法は彼らの言語用法である。
つまり、
「神」と訳されるギリシア語の「テオス(θεός)」の使われ方から、
ギリシア人の基本的な神観念を探るのである。
この着眼は
ドイツの古典学者ヴィラモヴィッツ(1848-1931)によってなされたものであり、
彼は正当にも、
ギリシア人にとって「神そのものは何よりも述語概念であった」
ことを指摘している。
(プラトン[著]朴一功[訳]『饗宴/パイドン』京都大学学術出版会、2007年、
p.377)

 

引用が長くなりますので、ここまでにしたいと思いますが、
このあと具体例が挙げられ
ヴィラモヴィッツさんの「述語概念としての神」の言わんとしているところが説明されています。
主語としての神でなく、述語としての神。
さまざまな場面で人間に作用する力であり、そのはたらき。
そうした存在の人格化が「神」。
そうすると、
「隠された神意」の意を本来もつところの日本語の「業(わざ)」に近くなるのでは、
という気もします。
わざおぎ(俳優)は、
業招き(わざおき)だったとされていますから。
こうなると、
ギリシアの神々が
にわかに身近に感じられてきます。

 

・万葉の空の下なる若菜つみ  野衾