人(ひと)は霊門(ひと)

 

新井奥邃(あらい おうすい)さんのことばに、
「隠路あり、照々の天に宏遠の道より開く。クライストの微妙の戸なり」
があります。
戸はまた門でもあります。
門戸開放という熟語もありますが、門も戸も「と」と読み、
内と外をつなぐ、
あるいは、
内から外へと、外から内へと通じる扉ともいえます。

 

宣長のいふやうに処を斗といふことのあるのは事実であるが
此処の斗は戸、門などの斗であつて
生の顕現する門戸
といふ意味の斗であると思ふ。
家屋の戸はいふまでもなく、
水門みなと、瀬戸、山門やまと、長門など皆
顕はれ口といふ意を有つ語である。
戸の語のもつ顕はれ口の意は単に場所的の義に限らず生成の義を含むのである。
即ち生成進行上霊が形相を顕はしたとき
その形相事物を指して霊の顕はれ口又は霊の門戸といふ
のである。
その最も良い例は人である。
人は霊門ひと
であつて
個人は世界霊、国の霊、祖の霊などが自らの生成形相としたところの門戸である
とするのが上代人の人間観である。
この意味に於て凡ゆる事物は世界の霊門である。
(鈴木重雄『幽顯哲学』理想社出版部、1940年、p.42)

 

これからすると、
松尾芭蕉さん、本居宣長さん、佐々木信綱さん、澤瀉久孝さん、小西甚一さんが、
いまの三重県の生まれであることにも何らか意味がある
ように思えてきます。
三重県には伊勢神宮があります。
人間的には、親が居、祖父母が居、ご先祖様が居ますけれど、
角ぐむ葦のように、
ひともその土地から生まれるべくして生成し、
霊を顕現し、この世に生まれ、存在し、
それぞれの役割を果たしているように思われます。
これはまた、
ハイデッガーの「存在者の存在」とも響いてきそう。
さらに、
先年お亡くなりになった鈴木亨先生のエコジステンス(響存)とも。

 

・雪解けの校庭の土乾きけり  野衾