わたしの実家は、仲台というところにあり、
広々した丘陵の少し下がった場所に位置しています。
小学生のころ、
登校の際は、ながい坂道を下り、下校の際は、ながい坂道を上って家に帰りました。
小学校は六年間で、一日も欠席しませんでしたから、
いつのまにか、
山と坂道の感触が足裏から入って体に染みついている
かもしれません。
高校も山の上にあったし、
大学時代は、平地にも住みましたが、
山の上に住み、
ここ横浜に来てからも、やはり山の上に住み、
いま居るところも山の上。
なので、
そんなこともあってか、
本を読んでいて山が出てくると、つい目が留まり、いろいろ考え、想像します。
知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ(『論語』「雍也第六」)
いろいろ解釈があるようです。
吉川幸次郎さんは、
徂徠さんの解釈を紹介し、ご自身の解釈をひかえておられます。
多くの民は来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。
私たちはその道を歩もう」と。(『旧約聖書』「イザヤ書」2:3)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、
弟子たちが御もとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。
(『新約聖書』「マタイによる福音書」5:1-2)
これまたいろいろ解釈があるようです。
山の上からながめる景色は、どの山の上からでも、ほー、となります。
・馬糞乾きこまかき藁を春嵐 野衾