オンラインとノンライン

 

きのうの日曜日、
『アラン『定義集』講義』の著者、米山優先生とオンラインでの対談を行いました。
『アラン『定義集』講義』は、
米山先生が名古屋大学において、
2017年の定年まで、
十年余りにわたり行った講義草案を基にまとめられた本です。
いまから三年前にこの本を買って読み、
とてもおもしろかったので、
本を出版している版元経由で、対談をお願いしたところ、
快く引き受けてくださったのですが、
新型コロナの影響により、
延び延びになっていました。
対談の内容は、次号『春風新聞』に掲載予定です。
対談は午後からでしたが、
午前中は、
マンションの総会があり、
それに出席しました。
議案の一つに、
【オンラインによる総会等の運用承認に関する件】
があり、
はぁ、いまどきだなぁ
って思いました。
体を運ばなくてもできることは、
体を運ばないでする、
そういう時代がきたようです。
体をどこに置くか、
メリハリを感じる今日この頃でありますが、
必然的に、
ひとりの時間が多くなります。
『アラン『定義集』講義』のなかに「礼儀」の項目があって、
礼儀といえば、
自分以外のひとを想定するのがふつうですが、
自分に対しても礼儀正しくあることの要諦が論じられています。
中国の古典『大学』の「慎独」に通じる考え方
であると思います。
なぜ自分に対して礼儀正しくあることが大切か。
いろいろ考えさせられますが、
その言葉から連想するのは、
ゴーゴリの『死せる魂』のなかの、
「ひとは一人になると何をするか分からない」
という言葉。
場所の制約がかつてほどでなくなるにつれ、
自分への礼儀正しさについて考えさせられる場面が多くなりました。

 

・さき旨し丸もまた佳しどぜう汁  野衾

 

一字も削れない

 

このころ宵曲は、自宅の大森から水道橋までの定期をもち、
午後、
まず本郷に岡本経一氏の青蛙房に寄ってから、
夕方五時半頃には、
神保町に八木福次郎氏の日本古書通信社を訪ねるというのが予定のコースだった。
八木氏によると――
事務所で仕事をしていると、
階段をコトッ、コトッ、コトッと昇ってくる下駄の音が聞こえてくるんです。
そのころでも下駄の人は少なかったので、
柴田さんみえたなとわかります。
手すりのない木造の急な階段を、
手をつくようにして昇ってこられるんですね。
六時半頃いっしょに社を出て、
御茶ノ水駅近くの喫茶店で、
いつも決まった席にすわって珈琲をのみながら一時間ぐらい話をしました。
柴田さんとよく行った喫茶店は、
明治大学の通りを上った左側の八百屋の二階にありました。
今の茗渓堂のあたりでしょうか。
柴田さんは書くのは速かったですね。
「古書通信」の紙面の都合で埋め草を急遽お願いすると、
しばらく考えてから下書きもせずに書きはじめ、
二十五行なら二十五行に収まるように書いて一字の訂正もないというふうでした。
柴田さんの文章は一字も削れないんです。
行間を変えたり、
行を追い込んで組むよりありませんでした。
柴田さんを俳句とすると、
森(銑三)さんは和歌でしたね。
やはりきれいな書き直しのない原稿でしたが、
三十一文字ですから削れるんです。
(鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』平凡社、2008年、pp.214-215)

 

たとえば引用したこの文章をゆっくり三度読むと、
たしかに、
「階段をコトッ、コトッ、コトッと昇ってくる下駄の音が聞こえて」
くるようです。
それは、
鶴ヶ谷さんの文章が一定のリズムをもち、
心地よいテンポがあるから、
読むことをとおして、
文章がこちらに沁みてくるからでしょう。
柴田さんも然り、森さんも然り、こういう文を書くまでの精進を思います。

 

・終りまで天蓋叩く蟬の声  野衾

 

身につく

 

十読は一写に如かずというように、昔の人はよく本の筆写をやった。
これには、
今のように簡単にコピーをとることができなかった
という事情のほかに、
文章の練習という意味合いもあった。
作家志望の青年が、
敬愛する作家の作品を一字一句丁寧に写しながら、
文章の呼吸を学んだのだった。
井伏鱒二は若いころ、
志賀直哉の作品を原稿用紙に丹念に写して文章の勉強をしたという。
先年亡くなった澁澤龍彥は、
堀口大學の訳詩をノートに書き写して、
詩の翻訳の機微を学んだらしい。
没後、
お宅にうかがう機会があり、
そのとき書斎を整理していた夫人に、
こういうノートが出てきたのですが、
本があるのに
どうしてわざわざ書き写したのでしょうと尋ねられた。
フランス文学者の翻訳家でもあった澁澤龍彦も、
人知れずそんな地道な努力をしていたのだった。
(鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』平凡社、2008年、pp.121-122)

 

文章も、体験して身につくということでしょうか。
きのう、この欄に、ヤザワさんとイトイさんの対談のことについて書きましたが、
ふたりの語りのおもしろさは、
どれも体験に裏打ちされているからだと感じます。
大声を発しなくても、
体験に裏打ちされ生まれることばが、
胸にとどき、
こころにひびいて来るのでしょう。
同じように、
文章の呼吸が身につくには、
身体を通すことがどうしても必要なようです。

 

・身の上がひとり旅する秋の風  野衾

 

ヤザワさんとイトイさん

 

イトイさんとヤザワさんでもいいわけですが。
知らずに過ぎていましたけれど、
2019年に、
七年ぶりに対談をしていたそうで、
それがネット上で読むことができます。
タイトルは、
「ほぼ日刊イトイ新聞創刊21周年の記念企画 矢沢永吉×糸井重里 スティル、現役。」
はい。
ヤザワさんは、矢沢永吉。
イトイさんは、糸井重里。
ふたりの対談、
長丁場ですが、むちゃくちゃおもしろく、
感動しながら、また、うらやましくも思いながら、
最後まで読みました。
なにがうらやましかったかといえば、
こういう対談の時間は、
いかに事前の準備をしても、
一朝一夕にはぜったいに実現できないものである
と感じたからです。
ヤザワさんの話したことをイトイさんがまとめた『成りあがり』は、
ベストセラーになりましたが、
それについても触れられていました。
本づくりのために、
イトイさんがヤザワさんにくっついて歩き、
どこでもテープを回すものだから、
「おまえ、しつこいんだよ」
と、
ケンカになりそうなこともあったのだとか。
『成りあがり』という書名は、
イトイさんの提案によるそうですが、
ヤザワさん、
初めは気に入らなかったのに、
イトイさんの話を聞いて納得し、
受け入れたそうです。
ひとの話を聴いて、それを録音し、テープ起こし、校正、編集し、
まるでヤザワさんが語っているかのように
読めるけど、
そんなことはあり得ないわけで、
あの本がいかにイトイさんの力業であるかを、
まざまざと見せつけられるような、
そして、
ヤザワさんのひととなりを文字で知ることができる、
すばらしい本でした。
そういうかけがえのない、
火花が散るような時間があったればこそ
の、
2019年の対談なのだとつくづく感じ入りました。

 

・ひぐらしはとどかぬ夢の名残かな  野衾

 

岩本素白

 

素白が古典を味読する上にも、いかに鋭敏な感覚によっていたかがわかる。
それは自身の書く文章にも随所に感じられる。
たとえば――
荒物屋、煎餅屋、煙草屋、建具屋、そういう店に交って、
出窓に万年青おもとを置いたしもた屋の、古風な潜くぐりのある格子戸には、
「焼きつぎ」という古い看板を掛けた家がある。(「寺町」)
ただこれだけのことだが、
そう思って読むと、独特のリズムがあっておもしろい。
気ままに歩きながら、
その眼差しは土地の人びとにも念入りにそそがれる。
世の変遷をかこつ寺町の老人、
子守をしている婆さんや小おんな、
石欄に腰を掛けて春の光を楽しんでいる蓬髪垢面の怪しげな人物、
角の店先にほのぐらい行灯を置いていた店の主など、
いずれも時代にとり残されたような人物である。
日ごろ顔をのぞかせる知人も、
旧時代の風習をいまだ慎ましく守る、善良にして克明、篤実な人たちだった。
かつてはどの町にもひとりぐらいはいたと思われる、
やや頭のおかしな奇人も登場する。
彼らは笑われときにからかわれながら、
誰からも親しまれていた。
そんな愚人にそそがれる眼差しには、
人間というものを見つめた末に生れる温かみがこもっている。
細やかにして、
いくらか複雑な眼差しといわなければならない。
(鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』平凡社、2008年、pp.93-94)

 

素白とは岩本素白。池内紀さんが編んだ素白の本がある。
池内さんは、
素白によって散歩のたのしさを知ったという。
それと、
静けさのしみとおった言葉づかい、静かな文章を。
引用した鶴ヶ谷真一さんの文章にも共通の息づかいが感じられる。

弊社は本日より通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・夏草や原子心母の胸騒ぎ  野衾

 

愉快なポスター

 

仕事柄もあると思いますが、世にあるチラシ、ポスター、看板、各種掲示板、
それらが目の前に現れると、
つい目が行きます。
せんだって、
横浜駅から東急東横線の電車に乗ろうとしたとき、
下の写真にあるポスターが目に入りました。
「並んでいる方がいます!」
「割り込み乗車はおやめください!」
イラストが描いてあり、
電車を待ってきちんと並んでいるのに、横からスーッと移動してきた人物が、
人の列を無視して電車に入ろうとしている。
ブッブーッ!!
伝えたいことが分かりやすく、
きちんと伝わるポスターだと思いました。
ここまで、
わたしは、ふつうに、
「なるほど。たしかになぁ。そういう人、いるなぁ」
と、
電車を待ちながら眺めていました。
しばらくして、
ん!?
と目をみはったのは、
並んでいる人の頭になにやら印が付けられている
ことでした。
目を凝らしてよく見ると、
すべての人の頭に怒りのマーク。
省略されたピクトグラムのような人の頭に記された怒りのマークは、
激しく主張しつつ、
しかしあくまでも静かに、
でも、
これでもかというほど目立っている。
ジッと眺めながら、
怒りのマーク付きのそれぞれの人の見えない表情を想像していたら、
ふつふつと笑いがこみあげてきた。
ふき出すまでには至りません
でしたが。
早朝の地下鉄のホームが少し明るくなった
気がしました。

弊社は明日(水)から来週15日(月)まで、
夏季休業とさせていただきます。
16日(火)から通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・夏草は煤と汁とのかをりかな  野衾

 

きのうの空

 

休日出勤しての帰宅途中、ドラッグストアに立ち寄り、キッチンタオルなどを購入し、
それからドラッグストアを出て、
交差点を渡り保土ヶ谷橋へ向かう途上、
近ごろリニューアルオープンしたコンビニに、
立ち寄るべきか、
素通りすべきか、
すこし躊躇っていたところ、
なかから、
目の覚めるような青いドレスを着た背の高い女性が現れ、
クッと90度、身を返し、
保土ヶ谷橋方面へ向かうようでありました。
目鼻立ちがくっきりとしており、
『ひまわり』のソフィア・ローレンをほうふつとさせました。
ドレスの丈、色も、
わたしの想像を刺激するのに一役買ってくれた
ようです。
わたしは、
コンビニに入ることをすっかり忘れ、
磁石に引きつけられるようにして、
青いドレスの女性の後ろを保土ヶ谷橋の交差点に向かって歩きだしました。
女性は、
歩くスピードが速く、
わたしはだんだん引き離されていきます。
と、
女性の右手に何やら握られているのが、
目に入りました。
ん!?
なんだ?
茶色い、四角っぽい、瓶。
わたしは、
歩くスピードを少し上げました。
あ!!
ブルドックソース!!
ん~~~
わけもなく、
なんだか、だんだん愉しくなってきました。
大股で歩いていくソフィア・ローレン似のキリリとした女性の右手に、ブルドックソース。
それだけを持ち。
暮らしがちゃんとここにある、
たとえて言えば、
そんな感じ。
威厳さえ感じられました。
女性は、どんどんわたしから離れていきました。

 

・曇天破れ垂直の驟雨かな  野衾