身につく

 

十読は一写に如かずというように、昔の人はよく本の筆写をやった。
これには、
今のように簡単にコピーをとることができなかった
という事情のほかに、
文章の練習という意味合いもあった。
作家志望の青年が、
敬愛する作家の作品を一字一句丁寧に写しながら、
文章の呼吸を学んだのだった。
井伏鱒二は若いころ、
志賀直哉の作品を原稿用紙に丹念に写して文章の勉強をしたという。
先年亡くなった澁澤龍彥は、
堀口大學の訳詩をノートに書き写して、
詩の翻訳の機微を学んだらしい。
没後、
お宅にうかがう機会があり、
そのとき書斎を整理していた夫人に、
こういうノートが出てきたのですが、
本があるのに
どうしてわざわざ書き写したのでしょうと尋ねられた。
フランス文学者の翻訳家でもあった澁澤龍彦も、
人知れずそんな地道な努力をしていたのだった。
(鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』平凡社、2008年、pp.121-122)

 

文章も、体験して身につくということでしょうか。
きのう、この欄に、ヤザワさんとイトイさんの対談のことについて書きましたが、
ふたりの語りのおもしろさは、
どれも体験に裏打ちされているからだと感じます。
大声を発しなくても、
体験に裏打ちされ生まれることばが、
胸にとどき、
こころにひびいて来るのでしょう。
同じように、
文章の呼吸が身につくには、
身体を通すことがどうしても必要なようです。

 

・身の上がひとり旅する秋の風  野衾