三権分立

 

日本では菅さんが総理大臣になり、
アメリカでは次期大統領選が予断を許さぬ状況にありますが、
政治思想の根幹にある三権分立の考え方
を蔑ろにしかねない傾向が、
二国に限らずこのごろ出て来ているように思われます。
三権分立といえば、モンテスキューであり、
そのまえのジョン・ロックであることは、
中学の社会の授業で習いますけれども、
その根底には、
理知的な歴史の理解と深い人間への洞察があったはず。
クエンティン・スキナーの『近代政治思想の基礎』のなかにこんな箇所があり、
目をみはりました。

 

一五五〇年代に急進的なカルヴァン派によって展開された人民革命理論は
近代立憲主義思想の主潮へと流れ込む運命にあった。
もし一世紀以上も先のジョン・ロックの『統治二論』
――急進的なカルヴァン派政治学の古典的なテキスト――
にちょっと目をやるならば、
同じ一連の結論が、
しかも意外なほど同じ一連の論拠によって、擁護されていることがわかるのである。
『第二論文』の最後のパラグラフで、
政府がその職務の責任を果たしているかいなかについて
「誰が審判者となるか」と問うとき、
ロックはそれに答え、
その合法的な限界を越える支配者に抵抗する権限は
単に下位の執政官や人民の他の代表者にばかりでなく、市民自身にもある、
なぜなら
「このような場合の適切な審判者は人民全体であるべきである」からだ、と主張する。
(クエンティン・スキナー[著]/門間都喜郎[訳]『近代政治思想の基礎――
ルネッサンス、宗教改革の時代』春風社、2009年、p.519)

 

目の前の政治状況の底には、
いわば地下水のように、人間が培った歴史の叡智が潺湲と流れている。
それを無視するわけにはいかない。
現代の政治思想の基礎をつくったひとりジョン・ロックの『統治二論』には、
宗教改革の時代の中心的な議論が流れ込んでいると、
スキナーは言う。
脈々と受け継がれる歴史のうねりを意識するとともに、
その流れを生じさせた要因のひとつに、
十四世紀を境に始まるペスト禍があったことを思わずにはいられない。

 

・崖つぷち光を揺する薄かな  野衾