遊びに必要なもの

 

遊ぶのにも才能が要るんですよね。
自分を棚に上げて開き直るわけじゃないけど、
得てして仕事するより遊ぶことのほうが難しい。
楽しむってね、もちろん積極性が必要だし、金だけじゃない、
もっと広い意味での元手がかかるんです。
受動的な遊びって多分ないんですよ。
マゾの人だって、
自分から叩かれに行くんですからね。
仕事は中途半端でも流れて行くこともあるでしょうけどね、
遊びだけは中途半端にやったら何も残らないよ。
(友川カズキ『友川カズキ独白録』白水社、2015年、p.205)

 

遊ぶのに才能が要るかどうか分かりませんけれど、
以前、東京の出版社に勤めていたとき、
社長が酒好きだったため、
連日社長に連れられ、飲み歩いていた時期がありました。
夜の時間のなかで、
いろいろな人、
さまざまな生態を見せてもらった気がします。
頭髪の薄い、ある飲み屋の主人が、
ブラシでアタマをポンポン叩いて刺激するのがいいというので、
激しくやった結果、
アタマからだらだら血が流れた、
というのがありました。
その話を聞いたとき、
オヤジさんの顔をじっと見てしまいましたが、
いま思い出しても可笑しい。
オヤジさん、
自分の店を閉めてから、
キレイな女性のいる飲み屋に夜な夜な出かけているようでした。
オヤジさんにしてみれば、
遊ぶ才能より遊ぶ髪、だったか。

 

・夜に入りなほ耳に棲む夏の海  野衾

 

ブリコラージュの詩

 

器用仕事(ブリコラージュ)の詩は、そのほか、またとりわけ、
それが単にものを作り上げたり実行することにとどまらないところにある。
器用人(ブリコル-ル)は、
前述のように、
ものと「語る」だけでなく、ものを使って「語る。」
限られた可能性の中で選択を行なうことによって、
作者の性格と人生を語るのである。
計画をそのまま達成することはけっしてないが、
器用人(ブリコル-ル)は
つねに自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである。
(クロード・レヴィ=ストロース[著]/大橋保夫[訳]『野生の思考』
みすず書房、1976年、p.27)

 

ブリコラージュには「日曜大工」的なニュアンスもあるようです。
「詩を書く」ことはブリコラージュ、
なるほどと納得ます。
なぜなら、
まったく新しい詩を書いたつもりでも、
材料はといえば、
手持ちの、いわば、
手垢のついた言葉を使うしかないわけで。
新しいとすれば、
その新しさは、
一つ一つの言葉ではなく、
一つの言葉ともう一つの言葉の結びつきにある、
ということでしょうか。
西脇順三郎の詩論にも、
そんなようなことが書いてあったかと。

 

・洗はれて涙目となる磯の蟹  野衾

 

読書の時間

 

収録後にゴールデン街でみんなで飲んで、やっと人心地ついてね。
私のアパートで鍋パーティをやる約束をして、
後日、
三上(寛)氏や評論家の松本健一さんなんかも交えて手製の鍋料理を囲んでね、
膝突き合わせて飲みました。
こっちもうれしくてベロベロに酔っちゃってね、
出したばっかりの私の処女詩集を見せびらかしたりした。
これは後ではっきり言われたんですが、
「この詩集の装丁はよくない」
と。
友人の日野日出志のイラストを使わせてもらったんですけど、
黒い空と海と難破船をバックに包丁を手にした男が立ってる絵ね。
中上(健次)さんは
「表紙が内容を言い過ぎていて、全然読む気にならない」
っておっしゃんたんだな。
正鵠を射た批評というかね、慧眼ですよね。
今になって考えてみると、
その通りだと思う。
(友川カズキ『友川カズキ独白録』白水社、2015年、p.177)

 

友川さんの処女詩集の装丁についての中上健次の発言、
納得します。
内容をギュッと圧縮し、
さらに圧縮したような装丁は、読んでいないのに、
なんだか中身が分かったような気になり、
得したというよりも、
むしろ損したような気になります。
本を実際に読みはじめた読者が、
本を読む時間とともに、
いろいろ気づいていくのがほんとうの読者サービス。
本のタイトルも、装丁も、
読者の「読書の時間」に資するものでなければならない、
と考えます。

 

・お社やいのちの祭蟬の声  野衾

 

声と人

 

だからまぁ、一番大事なのはその声の後ろにいるはずの「人」の問題なんだよね。
私はそっちの「内面」の方が問題なんだと思うのよ。
人にとって一番面白いのは「人」なんだな。
確かに音楽って、身体的なものではあるわけです。
肉体ありきのものではあるんだ。
でも大切なのは情緒や感情などの「内面」。
それは反復作業で鍛えられるようなものではないと思う。
(友川カズキ『友川カズキ独白録』白水社、2015年、p.122)

 

引用した上の文章の前に、
デビューしたころ、
レコード会社に言われて一度だけ専門家のもとでボイストレーニングをした
ことがあると記されており、
「生きてるって言ってみろ」のあの友川カズキが
神妙にボイストレーニングをしている姿を想像したら、
笑いが噴き出した。
友川さん、それでどうしたかというと、
「アホらしくなってね、途中で飛び出し」たんだそうです。
で、
ボイストレーニングの有名な先生に向かい、
「どう考えてもこんな練習は必要ないと思います」
と啖呵を切ったところ、
先生は話の分かる人だったらしく、
「うん、君の言うことも間違ってはないな」
ということになり、
すぐに友川さんを解放してくれたのだとか。
下の写真を見ながら
このエピソードの場面を想像すると、
友川さんには悪いけど、
なんともいえず可笑しくなります。

 

・社いま古代のまつり蟬しぐれ  野衾

 

音調のこと

 

実際には、音調がもっとも重要であるかもしれない。
T・S・エリオットは
「詩における意味は、
それによって読者を油断させてその隙に本質的なものを相手に忍びこませるもの」
と言っている。
これは詩に限らない。
繰り返し述べるが、精神医学的面接においても、
H・S・サリヴァンは
「言語的(verbal)精神療法というものはない。
あるのは音声的(vocal)精神療法だけだ」
とまで言っている。
そして
「きみの「デザイアの声」で語り、「トレーニングの声」で語るな」
と言っている。
耳の聞こえにくい人との面接は目の見えない人との面接よりも難しい。
また、一般に大声での会話では音調がなくなる。
耳の聞こえにくい人との対話の難しさは、
逆説的だが、そこである。
(中井久夫『私の日本語雑記』岩波書店、2010年、p.240)

 

三橋美智也の歌について母が漏らした
「このひとの声だば、世話してもらえるような気がする」
の言葉をさらに敷衍する内容。
三橋美智也をリスペクトする歌手は多く、
テレビでも、
彼の歌をカヴァーして歌う歌手は少なくないけれど、
みんな上手いし、
それなりに楽んで聴いてはいるものの、
改めて、
三橋美智也の声の質について考えざるをえません。
美智也の声は、聴いているうちに、
気持ちがだんだん落ち着いてくるというのか、
おだやかになってくるというのか、
とにかく、声、なんですね。

 

・犬連れた佐々木さんにも秋来る  野衾

 

声のこと

 

私の経験によれば、
どこからも入院を拒絶されがちな患者さんをみていると、
暴力でも、理屈でもなく、音声である。「声がすごいんです」と主治医がいう。
問題はもっぱら声にあった。
私は会ってみた。
その音調は話題を問わず
「ブリキの板で脳味噌を直接切りさいなまれている」感覚を起こさせた。
しかも、
間を置かず、「あのー」の間の手もなく、
私が口をはさむ隙間が全くない。
この音調を二時間以上ただ聴いていると、私の脳は全く麻痺する。
必ず左耳で電話を受ける私は左耳の高音部の聴力を四デシベル低下させた。
右脳に入ることになることがポイントかどうか、
私は必ず左耳で受ける。
右耳で受けると心なしか乾いた論理しか伝わらないようだ。
ブリキ板への私の対応は、
無理でもゆっくりと低音で返事するか、音調をせせらぎのようにして、
細い、しかし明快な声で答えることであった。
これは重荷ではあったが、
相手はいつしか穏やかな音調に変わっていった。
(中井久夫『私の日本語雑記』岩波書店、2010年、p.231)

 

さすが中井久夫さんと思いました。
わたしも左耳で電話を受けますが、そうしている人は多いのではないでしょうか。
いずれにしても、
コミュニケーションにとって、
話の中身よりも声がいかに重要か、
そのことを改めて考えさせられました。
もう一つ。
三橋美智也の歌を聴いて、
ぽつり、
「このひとの声だば、世話してもらえるような気がする」
と漏らした母の言葉を思い出す。

 

・新聞をキオスクまでの今朝の秋  野衾