いくつになっても

 

「価値をつけるものは、わざ(アート)であって、素材ではない。」
……………
『ロビンソン・クルーソー』は、
二世紀をこえて後も、
やはり依然として「かつて書かれた最上の孤島物語」である。
デフォーは『ロビンソン・クルーソー』のなかに、
根本的で普遍的な孤島物語の概念をつくりあげたのに、
模倣者たちは一人もそれをなしえなかった。
(リリアン・H・スミス/石井桃子・瀬田貞二・渡辺茂男[訳]『児童文学論』
pp.46-47、岩波書店、2016)

 

よい本をえらぶ基準はあるのか。
あるとすればどのようなことなのか。
子どもはそれをいちいち言葉にしません。
好きなものをだまって読みつぎ、
それが児童文学の古典とされてきたことがよく分かります。
「十歳の時に読む価値のある本は、五十歳になって読みかえしても同じように
(むしろしばしば小さい時よりもはるかに多く)価値がある
というものでなければならない。
……おとなになって読むにたえなくなるような作品は、
全然読まずにいたほうがいい本である。」(同書、p.13)
「ナルニア国ものがたり」を書いたC・S・ルイスの言葉です。
わたしは本を読まない子どもでした。
本を読むたのしみを知らず、
季節ごとにめまぐるしく変化する自然とたわむれてばかりいました。
もし、あのころ本を読んでいたら、
と、
考えないではありませんが、
スミスさんのこの本を読むと、
六十一歳になったいま
児童文学の名作を読むことのたのしさを
あらためて思い知らされるようです。

 

・さつきあめ嶺々(みねみね)のそら跼(かが)みをり  野衾