手袋でメール打つ手のあつさかな
小社ホームページへのアクセス数が、おかげさまで20万を超えました。これもひとえに日頃の皆様のご愛顧の賜物と喜んでおります。今後、30万、40万、100万アクセス目指して、さらにバージョンアップしていきたいと考えております。
思い返せば8年前、会社を立ち上げて2年目だったと思うが、横浜国大の学生でアルバイトに来ていたS君が小社初のホームページを作ってくれた。うれしかったあ。新婚夫婦念願の夢がかなって小さなお店を出したような気分、とでも言ったらいいでしょうか。ちらちらちらちらクリックし、閉じてはまたクリックし、ひと来ねーなー、なんだよ、つまんねーなー、ん! お! 3人見に来てくれたぞ!! やったー!! すばらしい!! と思ったら、なんのことはない、社内の人間が他のパソコンで覗いていたことが分かってがっかりしたり。そんなことがなつかしく思い出されます。
この間、すっかりパソコンが普及し、インターネットの時代となり、今やパソコンなしの生活は考えられなくなりました。本の本たるゆえんがますます問われています。
ホームページを充実させることはもちろんですが、言葉とモノ・ひととのリアルな関係性をさらに追及していかなければと考えています。
ザクザクと踏みつけたきは霜柱
霜柱うすむらさきに匂ひけり
年2回発行することになっている春風目録新聞のための原稿依頼の手紙を書いた。大げさに言えば、(大げさでもないのだが)ひと月ほど前から、どんな角度からどんな文面でどんなふうにお願いしようかと、自分の中でそのことを考え、もやもやした気分を醸成させている。
たびたび思い、考える。結論の出ぬまま何度でも。あまり生産性のない所作ではあるけれど、絶対に欠かすことのできない時間だと自分では思っている。アタマで文章を書いてはいけない。
もやもやがようやく発酵してきたとなったら机に向かうが、もやもやっとした感じが失われぬようにまず書いて、ははあ、こんなふうにもやもやしながら、こんなことを感じ分けていたのかと、もやもやの輪郭が次第に見えてくる。ここで急くと、またアタマでっかちな文章になる。落ち着きのない子供が遊ぶように、動物園の白熊が右往左往するように、机上の文書を手に取ったり眺めたり、引き出しを開けたり閉めたりしながら、でも忘れずに、また件の文章に戻って、もやもやの落ち着くところを探る。
きのうは3通書けた。
テロリスト我が家を襲ふ春の夢
朱剛先生の禅密気功に出合い、教室に通い、自宅で始めるようになって1年が過ぎた。この間、インフルエンザはもちろん、風邪も引かず、肩や腰の調子、内臓の具合もよく、継続することの大切さを身に染みて感じている。今は、気功で始まり気功で終わる1日がうれしい。
先日、作家の五木寛之と医者の帯津良一の『健康問答 2』を読んでいたら、こんな話が出ていた。
帯津さんが上海市気功研究所に行ったとき、感動的な動きをする人がいて何年やっているんですかと尋ねたら、40年と答えたそうだ。ところが、近頃、帯津さんはさらにすごい太極拳の名手に出会った。どこがすごいかと言うと、説明できないくらいにすごい!! 宇宙と体が完全に一体化しているような動きをしているものだから、帯津さんが、40年やっているんですか? と尋ねたら、いや、50年やっていると。帯津さんは次のように結んでいる。
「いや、ほんとに、すごいんですね。気功というのは、武術やスポーツとちがって、才能のちがいなんかないんです。また、努力してやればいいってもんでもないんですね。なんというか、ウイスキーを寝かせるのと同じなんですね。やっぱり時間をかけないと。」
朱剛先生のあの流麗な動きをすぐに思い出した。先生も何十年やってこられて、溜め息の出るような美しい動きを体得された。揺らす、でなく、揺れる。一朝一夕にできるものではないのだろう。
わたしのは、まだ1年物のワイン。気功をできる日を楽しみつつ、徐々に熟成させていきたい。
母を連れ逃げしことあり春の夢
家の前にバスが停まり、バスは膨らんでいるように見え、膨らんでいるように見えたのは、中にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれた邪悪な者たちの気配によるものだと、すぐに分かった。邪悪な者たちはものすごい形相で、ただならぬオーラを身に纏いながら、順番にバスを降り、四方八方へ散っていくようであった。
こうなっては、もうどうしようもない。家に居たんでは見つかってしまう。押入れなんかに隠れたって、意味はない。
父は、大丈夫。弟も、逃げたようだ。こうしてはいられない。わたしは母の手を握り、東の山を目指し、田の畦を一目散に走った。振り向けば、異様な気配はまるで火事のように家全体を押し包み、それが、どうもこちらに向って体勢を整えているようなのだ。母はと見れば、だんだん息せき切っているようだけれど、急ぐ脚を遅らせるわけにはいかぬ。急げ! 急げ! 急げ!
後ろから近づいて来る者がいる。見れば、だれとは知れぬ。あの者たちの仲間ではないのか…。怖がらなくてもいい。やがて追っ手はお前たちにも向うはずだが、丘を下り、東の山のふもとに男が一人待っている。それに着いて行け! 言い終わるや、男はどこへともなく去っていった。わたしはまた母の手を握り、走らなければならなかった。いつまで走らなければならないのだろう。男の話を信用していいのかも分からなかった。信用したい自分の心が弱くなっていた。
雪降りて胡麻塩屋根が並びをり
裂肛ともいうらしい。肛門が裂けるで、裂肛。ふむ。
三十代のころから、硬い便が出ると(尾篭な話で恐縮!)しばしば紙に血が着いた。市販の薬を塗ったり入れたり、新聞によく広告が載る住所へ連絡し試供品を取り寄せ、塗ったり入れたり、その後、高価な薬を購入し、塗ったり入れたり、そうしたらなんでだか分からないけれど、ブランド物の皿なんかを贈られもしたが、いくら高価な皿をもらっても、痔と皿ではなんの関係もなく、だけでなく、その薬、最初は効いたかなと思ったのだが、だんだん痒みが増し、しゃがんで手鏡をかざして見ると、肛門がたらこ唇のように、また日本猿のように、いや、日本猿に限らず猿一般か、赤くなっているので、すぐに止めた。そうこうしているうちに、また切れたらしく、出血するようになった。
これではいかんと意を決し、銀座にある専門医を訪ねたところ、指と器具を突っ込み、肛門が三箇所切れているという。要するに、古いゴムホースのようになっているので、メスを入れ肛門を広げましょう、云々。というわけで手術を薦められた。さっそく予約を入れたのだが、そのころ世話になっていた整体師の先生に相談したら、言下に、「気」が止まってしまうので、やめたほうがよいと言われた。古いゴムホースの譬えは分かりやすく合点がいったけれど、一つ納得がいかないのは、わたしの肛門が古いゴムホース状だとして、決定的な違いは、いのちが通っているということ。細胞は一定の時間で総取っ替えするというではないか。
というような思考をあれこれ経めぐらし、一旦予約を入れた手術を取り止めにした。電話で済ませてもよかったが、申しわけないので銀座まで出向き、直接断りを申し伝えた。
それからどうなったか。
前置きが長くなった。練功365日、玄米菜食、鍼灸の三つ巴が功を奏してか、切れ痔が治った。少し硬めのが出て、あ、切れたか、切れたか、切れたのか!? と、恐る恐る紙を持っていくと、切れてない。切れてな〜〜い!! あはは、切れていな〜い!! 失礼。
これから絶対に切れないという保障はないけれど、さらに気功を続け、ほどほどの玄米菜食を励行し、定期的な鍼灸のメンテナンスによって、いのちある古くなったゴムホースをいたわっていこうと思う。
子供らのはしゃぐ声せり雪景色
解放前後の韓国における体験談を記した原稿を読んでいて、過去の現実というのは何かということを改めて考えさせられた。
起こったことはとり返しようがなく一回性のものだけれど、言葉はもちろん、写真でも絵でも、それが記録される時点で生身の人間を通過する。そこで、起こった現実は、作り出される現実に変成される。実が現れる…。今の現実につなぐためか。(ヤラセは言うに及ばず)
起きたことは一回でも、一回だからこそ、その意味を改めてさぐり読み返すことが必要なのだろう。現実を見据えて狎れず、何度でも。
若い友人が安野光雅の『旅の絵本』を見せてくれた。本屋に行くと必ずといっていいほど目につき、なんとなく見た気になって、一度も開いて見たことがなかった。面白い!! へ〜、こんな絵本だったんだ、と思った。ダンテの『神曲』と重ねたりしながらページを繰った。たとえば、そんなかたちで過去の現実は同じものであっても人それぞれに見え方は違うものなのだろう。こちらの変化、成長にしたがって、過去も変化、成長する。また、そのようでありたい。過去は、その意味で、わたしの中に生きている。
昨日、横浜では朝から雪が降った。賑やかな子どもたちの声が聞こえてきた。事件というほどのこともないこの日を記憶に留める子もいるのかな、と、ふと思った。
台湾に旅行した友人から送られた写メール
大寒を知るや空からひらひらり
カスと言っては、今まで顔をきれいにしてくれた石鹸に対して申し訳ないようでもありますが、使い切る前のあの薄い切片。感謝の気持ちをこめ、おろしたての丸丸太った石鹸に貼るのですが、水を付けくるくる手で捏ねまわしているうちに、また剥がれてしまいます。
ということを先日ここに書きました。そうしたら、かつての教え子からメールが来まして、「半生濡れの時につなぎ目をつくらないように(ここポイント)くっつけるのじゃ」とありました。ニッと笑った顔の絵文字も付いており、なるほどと納得した次第です。
出社前、さっそくこれから試してみることにします。