カレーライス

 雨模様だし、遠くまで歩くのが面倒臭く、正午をかなり回っていたからいつもお客で混んでいる会館傍のマイ・カフェに、ひょっとしたら今日なら入れるかと期待しながら行ったら、入れた。
 武家屋敷はランチ。専務イシバシとわたしはカレーライスに味噌汁をオプションでつけてもらう。カレー専門店のカレーとはまた別の家庭的なやさしい味のカレーだ。大食いのわたしのことを知って、マスターがご飯を多めにしてくれる。
 さて、普通に食事をし、普通に午後の仕事に掛かったのだが、夕方6時を過ぎた頃から急激に腹が減ってきた。ペコペコで脂汗まで出てきた。ほんと。来月から正式採用になる0さんがトルコみやげに買ってきてくれたお菓子を頬張ってもペコペコ収まらず。マイ・カフェのマスターがせっかく大盛りにしてくれ、美味しくいただいたのに、カレーライスだけではわたしの胃の腑は夜までもたなかった。
 夜は、保土ヶ谷まで腹をもたせるのが困難と思われ、紅葉坂を下り右へ折れ、太宗庵でビールととろろ納豆うどんを食す。

服を買う

 会社をはじめてから服を買ったことがない。ラフに着るものは買ってもスーツは買わずに間に合わせてきた。が、丁寧に着ていても傷みは隠しようがなく、久しぶりにスーツを買うことを目的に出かけた。
 女店員が適当なサイズのものを取りに裏に回り、これというものを試着した後、丈を合わせたり針で留めてくれたりと、それはそれは甲斐甲斐しく働く。その姿を見ていてなんだか愛しく思えてきたよ。愛しく思う必要はまるっきりないのだが、きちんとした制服を着ているのに、そんなことには頓着なく、床に膝を着いて仕事をしている姿に打たれた。目が充血していた。遊び疲れかも知れないのに、感動するこころはブレーキが掛からず、ああ、なんて甲斐甲斐しく素晴らしいのだ、『はたらく横浜美人』の企画に彼女も入れようと思ったりした。

粗忽

 第2作『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』がとても面白く、友達から薦められたこともあって、ビデオを借りに、さっそく保土ヶ谷駅のTSUTAYAへ。最近、足が遠のいており、カードの期限が切れているかもしれず、いい機会だから更新手続きもしようと思いながら。
 ザッとまわって、すぐに目当てのものを見つけた。ビデオが2本、日本語吹き替え版1本、DVDが5本、DVDのほうが画像が綺麗だろうからということで、DVDの箱を1本引き抜き、裏の解説をチラと目で追い、レジのカウンターへ向かう。この時点で、わたしはまだ自分のあやまちに気付いていない。
 4人いるレジの係りの空いているところへ、DVDの箱をサッと出した。と、その女性、毅然たる態度で「箱でなく中身のほうを持ってきてください」と言った。
 「はい??」とわたし。
 「ですから、箱でなく、中身のほう」
 「あ、中身、中身ね。中身を観るんだからね」などと間の抜けたことを言いながら、空箱を持ち、さっきの場所へ引き返した。レジのおねえさんに言われるまで気付かなかった。このごろ借りていなかったからといって、あまりの間抜けさ、粗忽に、われながら驚いた。
 元の場所へ戻ってみたら、ビデオ2本、日本語吹き替え版1本、DVD5本、すべて空箱。他のを借りる手もあったが、機先を制され気が萎えたので、更新手続きもせずに外へ出た。歩きながら友達に、保土ヶ谷TSUTAYA「ブリジット・ジョーンズの日記」すべて貸し出し中。のメールを送る。第2作を観ておもしろいと思い、最初のも観たいと思った人が他にもいたのだろう。

目の表情

 時間的なタイミングが合わず、ひょんなことから『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』を観ることになった。
 本も第一作の映画も見ていないから大丈夫かなと危ぶんだが、そんなことを忘れさせてくれるぐらい、これだけで十分楽しめる面白い映画だった。ストーリーもよく練られ分かりやすい。が、一番はなんと言ってもブリジット・ジョーンズ演じるレニー・ゼルウィガー。第一作の、唇をギュッとすぼめ腰を折り曲げこちらを睨むブリッ娘姿の写真がどうにも好きになれず、本も映画も食わず嫌いだったが、あの頃に比べ随分肉付きがよくなったとはいうものの、一度で彼女のファンになった。
 はまり役というのはこういうことを言うのかというぐらいに、ブリジット・ジョーンズはレニー・ゼルウィガーそのものだと思わせられる。それぐらい演技が巧い。喜怒哀楽の表情が嫌味でなくコミカル、かつ、そんな時にはそんな表情になるだろうと信じられる。作り笑いの表情など、可笑しく悲しく絶品でほろりとさせられた。
 一緒に観に行った友達から、三浦さんはどっちなのと訊かれたので、人権擁護派の男のほうになりたいと言ったら、元彼のほうじゃないの? と言われたのは少し残念な気がした。

ひとり上手

 中島みゆきの歌だ。♪手紙なんか よしてね 何度も繰り返し泣くから 電話だけで捨ててね ぼくもひとりだよとだましてね、というような歌詞もある。
 酔っ払ったとき、坂道を登りながらこれを思いっきりデカい声で歌うと、変な気分になってくる。前は「月の砂漠」をよく歌った。♪つ〜きの〜 さば〜くを〜、とやると、電柱もアパートもタクシーも、いま建築している建売住宅も目の前から消え、一面の砂漠、そして荒野にどデカい月が浮かぶ。ね。
 「ひとり上手」はどうか。坂道を登りながらこれを歌うと、とても悲しい歌なのに一向に悲しくない。リズムがいいんでしょうね。ヨイショヨイショと坂を登るのに適している。元気に登れる。が、その後だ。坂を登り切り足を止め、ハーハーゼーゼー言いながら、息せき切ってしつこくこの歌を歌うと、うまく声にならず、なんとも切ない、これ以上ないような悲しい歌を自分が歌っているのに気付く。カラオケで歌ったのでは絶対に出ない迫真のリアリティー。あまりの悲しさに、自分で歌っているにもかかわらず悲しくて悲しくて涙が溢れ、鼻水まで出てくる。言葉と身体ってこういう風にクロスするのかと妙に納得する。(でもこの納得、たぶん違う)

要するに

 コットンクラブで知り合い、わたしが兄貴と慕っているナベちゃんは、わたしと一日ズレて歯が痛みだし、夜、眠れず、体を真横にすると血が頭のほうに上って歯が痛み出すことを発見し、枕を高くして頭だけグッと前に傾け寝たそうだ。が、そんな格好では全然眠れなかったとか。歯ばかりか首まで痛くなった…。
 「三浦さんが歯が痛いって言った次の日だもんな」
 「そりゃあナベちゃん、親の血をひく兄弟よりも、ってやつでさ」
 「だって歯の痛いのまで同じってことはないでしょ」
 「そうね。不思議だね…」
 煙草を斜めにくわえ二人の会話を黙って聞いていたコットンママが、あの低い張りのある声で、「ほら俗に言うじゃない。歯、目、なんとかよ」。
 ナベちゃんとわたし、目を合わす。要するにそういうことなのだ。男も齢50に近づくとあちこち故障が出てくるということで、その筆頭が歯ということなのだろう。目は今のところ相変わらずの近眼だが、これも時間の問題で、やがて老眼が加わるだろう。コットンママが「なんとか」と言った「なんとか」は衰え未だしの感もあるが、これだって分かったものではない。男の仕事は50からだと、何人かの先輩から聞いたことがある。経験と知恵を生かした良い仕事ができるのは50からか、よし、それなら頑張ろうと思った。今でもちょっとは思っている。が、今回のこの歯の一件により冷静に考えてみるにつけ、メラメラと体を焼くような煩悩が衰えることによって、はじめて仕事に集中できる、仕事ぐらいしかすることがないという境涯もあるだろうかと思えてきた。寂しいけれど仕方がない。「神経が暴れている」と言った歯科医の言葉が妙なリアリティーを帯びてくる。老いへ抵抗するやぶれかぶれの神経が今の自分の姿なのだろう。自虐的なわけではなく。

手帳を閉じる

 愛用している手帳(高橋書店 No.78)を、自分では割と使っているほうだと思う。一番使うのは住所録かな。あと、絶対忘れてはならない約束や、記録しなければ忘れてしまいそうな言葉は意識して書き込むようにしている。手帳ってそれぐらいでいいのではないかとこのごろ思う。
 アイディアを含め何でもかんでも記録しておくのがカッコいいと思った時期もあったが、書いた時点で固定されるような気がして嫌になった。面倒臭くもあるし。頭に浮かぶもろもろは電光石火だし、善悪美醜の判断もままならず、スピードだって自分の頭なのに、おれ、何を考えているんだろうと思うぐらいのものなのだ。下心だってある。そういう火の玉の彗星状アイディアをそのままに遊ぶほうがたのしい。手帳を閉じてあれとこれがぶつかる様を眼を開けてジャッジすることは、どこでもできる遊びだ。