骨湯

 

 酒ほろりほろりほろりの夜寒かな

JR保土ヶ谷駅の改札を出、右手の階段を下りた正面に
富士ガーデンというスーパーマーケットがあります。
その建物に賃料を払っているのか、
八百屋と魚屋は、外部の店が入っているようです。
名前を覚えていませんが、
そこの魚屋の干物(に限らずですが)絶品です。
昨日は、赤魚の味醂干しでした。
わたしはこのごろ、これを食べるのを目的で生きています。
ほんと。これです!

091111_1905~0001

これさえあれば、ほかはもう、
香の物と味噌汁とサラダと酢の物と芋の煮っ転がし
(って、結構あるじゃん)ぐらいあれば、ほかに要りません。
最後は熱湯を注いで骨湯にします。
柚子を絞って垂らしたり、
塩や醤油を少々入れたりもするようですが、
わたしは、ただ熱湯だけを注ぎ、箸でゆっくり掻き混ぜて
魚の旨み成分を湯に溶かしていただくのが好きです。

091111_1945~0001

 旨過ぎて冬日の夕餉骨湯かな

ふんばる

 

 ほうとうの白人参の甘さかな

自宅のベランダに、よく猫が来ます。
狸もでるぐらいの無頼な山ですから、
野良猫はそこら中にいます。
帰宅途中、階段を上っていると、
多いときは五、六匹も目にします。
泰然自若というか、人が通ってもどこ吹く風と、
傍若無人の猫たちです。

ベランダのことでした。
朝、この日記を書き終り、ふと外を見ると、
猫がいます。まだ子どものようです。
土の入った鉢に上り、
うずくまって日向ぼっこをしているようです。
気持ちのいい朝でしたから。
と、おもむろに立ち上がり、腰を低くし、
なにやら踏ん張る風情です。
ここで気付けばよかったのですが、
生来観察好きな性格がわざわいし、猫のなすがままを見つづけました。
ハッと思って窓を開け、パチンと両手を合わせたのですが、
時すでに遅く、青汁を固めたようなソレが
存在感たっぷりに鎮座ましましていました。
まさに糞張る!

 猫騙しそれでも糞する野良の秋

090920_1928~0001

加賀谷書店

 

 上品の月に照らさる歌丸さん

拙著『出版は風まかせ』の注文を、
秋田市の加賀谷書店さんからいただきました。
加賀谷書店さんは、忘れられない書店です。
わたしの実家は秋田県南秋田郡。郡で済まずに、
その下には「字」もつきます。
農業を営む家が多く、
わたしの家も兼業農家でした。
齢八十に近づいた父は今も米を作っています。
農家であったことが言い訳にはなりませんが、
わたしの家は、本を読む習慣がありませんでした。
父も母も本を読みません。
わたしが小学四年生のとき、
母がわたしに本を買ってきてくれました。
森鴎外の『山椒大夫』と夏目漱石の『こころ』です。
近所の子どもと比べて人一倍本を読まぬ息子のことが、
心配だったのでしょう。
結局『山椒大夫』は読まずじまい、
『こころ』はタイトルが平仮名だし、読めるかなと思ったのですが、
さっぱり面白くありません。
すぐにほっぽってしまいました。
高校に入って、母からもらった本のことが気になりだし、
汽車(電車でなく汽車)通学でしたから、単行本は重いので、
新たに文庫本の『こころ』を買いました。
それを買ったのが加賀谷書店でした。
わたしの読書遍歴は、文庫本の『こころ』に始まったといっても
過言ではありません。
そのころは、出版社に勤めることも、
まして自ら出版社を立ち上げることも、
考えだにしませんでしたが、
先日、加賀谷書店さんから注文をいただき、
自分の人生がくるりと一巡したようにも思われました。

 月満ちて背赤後家蜘蛛毒を吐き

091016_1457~0001

腹にのる!?

 

 毒抜けて後は野となれポンと月

小学校に入るかその前か、
それぐらいの頃ではなかったかと思います。
家をでて坂を下り、井内の新太郎床屋によく行きました。
祖父のトモジイが床屋の道具を一式持っていて、
トモジイにやってもらうことが多かったけれど、
半々くらいの回数で、新太郎さんに髪を切ってもらいました。
気の利いた予約制などというものはまだなく、
大人も子どももブラッとやってきては、
おしゃべりしたり、新聞を読んだり、
しゃちこばって順番が来るのを待ったり、
めいめいの時間を楽しんでいたものです。
やっとわたしの番が来て、大きな立派な椅子に座りました。
新太郎さんが髪の毛をちょきちょき切っていきます。
鏡の中のわたしは、
切りそろえられた髪の毛の下で目の玉がきろきろしています。
馬の革にちゃんちゃんちゃんと当てた後の剃刀がうなじに当たります。
こそばゆいけれど、なんと気持ちがいいのでしょう。
新太郎さんは、次の客の話に合わせながら、
それでも手を止めることはありません。
わたしは鏡の中のその人の顔をながめました。
見たことはあるけれど、どこのだれだかわかりません。
新太郎さんにいろいろ話しかけていて、
ふと黙ったと思ったら、
「おもしろぐにゃあどぎは、かあちゃんの腹にのればええべ…」
と言いました。
新太郎さんは、うんともすんとも答えません。
どうして「かあちゃんの腹にのる」のだろう。
しかも面白くないときに?
新太郎さんに尋ねるわけにもいかず、
足りない頭でいろいろ想像しているうちに、
「はい。でぎました!」
わたしは慌てて椅子から跳び下りました。
後年、平凡社の『アラビアンナイト』(東洋文庫)を読んでいたとき、
らくだ乗りごっこという言葉が出てきて、
文脈からそれとわかりましたが、
小学校に上がるかどうかの年頃では、
「それ」の意味を理解することは出来ませんでした。
新太郎さんは昨年亡くなり、床屋を継ぐ人はいません。

 歌丸の歯茎慄はす枯野かな

091106_0820~0001

歌丸さん

 

 満月を網戸放ちて見し夕べ

今日は歌丸さん。
今度の「春風目録新聞」に、落語家の歌丸さんが登場します。
ご多用の合間をぬって、
インタビューに答えてくださいました。
武家屋敷がお話をうかがってきました。
わたしは、武家屋敷がまとめた記事を読んだのですが、
歌丸さんのお人柄が偲ばれるとてもいい原稿です。
仏教で上品、中品、下品という言葉があるようですが、
歌丸さんは上品の人なのでしょう。
短い時間のインタビューですし、
とくべつなエピソードを開陳してるわけではないのですが、
なにを語っても(原稿を読んでいると、
ピンクの歯茎をだしてニッと笑う歌丸さんの顔が浮かんできます)
武家屋敷も上手にまとめてくれました。
スッと胸に入ってきて、気持ちよくなります。
機会を見つけ、歌丸さんの高座を聴きに行こうと思います。

 満月や空のコルクを抜きにけり

090725_0936~0002

長田弘さん

 

 猫じゃらし我が身一寸法師かな

詩人の長田弘さんの本を、わたしは学生の頃から読んできました。
『ねこに未来はない』『読書百遍』『私の二十世紀書店』
『記憶のつくり方』『感受性の領分』等々。
出版社を始めて、いろいろな方に原稿をお願いし、
いただいてきたのに、
どうして長田さんにお願いしなかったのか、
自分でもなんだか不思議です。
お願いする時期がやっと来たということかもしれません…。
『読書百遍』と『私の二十世紀書店』を、
わたしは三度読みました。
二度読んだ本は他にもありますが、
三度読んだ本は、この二冊だけです。
(絵本は除きます)
『私の二十世紀書店』の巻末に、
本のなかで取り上げている書のリストがあり、
それに○印をつけ、宿題をこなすように読んでいきました。
懐かしい思い出です。一冊一冊読むことで、
二十世紀という、
それまで宙に浮いてでもいるように感じられた言葉が、
急に親しいものとなり、いろんなひとが呼吸して
歴史をつくっているのだと感じられたものです。
長田さんの本を読むと、こころがやわらかくなった気がし、
ああ、この感じで本を読みたいなあと思うのです。
そうして、書棚にあるまだ読んでいない本とか、
一度読んだけど、もう一度読んでみようかなと思う本を手に取り、
椅子に腰掛けてゆっくり頁をめくります。
そうすると、前と同じ文字を読んでいるはずなのに、
前はそんなことなかったのに、いま初めて読むように、
ことばが胸に沁みてきます。
長田さんの本が効いたのでしょう。
今度の春風社目録新聞のテーマが「紙の本」に決まり、
長田さんにぜひこのテーマで詩を書いていただきたいと思い、
手紙を書きました。
昨日、お原稿をいただきました。
「ベルリンの本のない図書館」がそのタイトルです。
正直、体が震えました。
今日もまだ、長田さんの詩の余韻に浸っています。

 鎌倉へ鉄道草の靡きけり

090828_1016~0001

おカネのこと

 

 椋鳥ら電線会議開きをり

お小遣いでなく、働いておカネをもらったのは、
小学校の四年生ぐらいではなかったかと思います。
お盆の前に沼に行き、蓮の葉を採ってきて、
それを売り歩きました。一枚いくらで売ったのか、
もう忘れてしまいました。
全部で二、三百円ぐらいになったのじゃなかったでしょうか。
それから飛んで、大学一年生の夏休み、
叔父のいる工場で働きました。
八時間働いて二千八百円。ということは時給三百五十円!
薄給です。
働いておカネをもらうことは大変だなあと思いました。
家庭教師は、いいおカネになったし、
喜ばれもしましたが、
あまり働いているという感じがしませんでした。
いま現在の働きは、その中間ぐらいの感じで、
働いている気がしないことも間々あります。
原稿を一枚一枚ていねいにチェックし
頁をめくっているときなどは、働いている感じがあります。
いくつになったら、おカネのことが
リアリティーをもって感じられるのでしょうか。
それとも、おカネは信用で成り立っているものですから、
鍋や火や水や鰯や太陽のようにはリアリティーが感じられなくて
当然なのか。
子どもの描く絵におカネの絵がないのは、
千円札、百円玉、十円玉はあっても、
おカネそのものというのは、
この世に存在しないからではないでしょうか。
それはともかく、
あるとき父が、子どもにおカネのことで
苦労かけまいかけまいと思って育ててきたが、
それは、どうやらそのとおりになったけれど、
そのせいで、逆におカネのありがたみが分からない人間になってしまったようだ…
と、ぽつりと言ったことがありました。

 きちきちと椋鳥電気帯びてあり

091031_1752~0001