本歌取りのこころ

 

伊藤博さんのものによって『万葉集』を、
片桐洋一さんのものによって『古今和歌集』を読み終えましたので、
ただいま、
峯村文人(みねむら ふみと)さん
のものにより
『新古今和歌集』を読んでいます。
和歌や連歌には、
古い歌の語句をかりて新しい歌をつくる本歌取り
という技法がありまして、
学校でも習ったような気がしますが、
いま、
時間をかけて三つの歌集を順番に読みながら、
あることに気づきました。
それは、
永遠を思う、
さらに、こいねがうこころが、
本歌取りをさせているのではないか、
ということ。
『新古今和歌集』251番、慈円さんの歌に、

 

鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十宇治川の夕闇の空

 

があります。
これの本歌は、『万葉集』にある柿本人麿さんの、

 

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも

 

また、254番、
藤原定家さんの歌に、

 

ひさかたの中なる川の鵜飼舟いかに契りて闇を待つらん

 

があります。これの本歌は、
『古今和歌集』にある伊勢さんの、

 

久方のなかに生ひたる里なれば光をのみぞ頼むべらなる

 

『新古今和歌集』の歌人たちが、
先行する『万葉集』『古今和歌集』を読み、
いかに読み込み、
自家薬籠中のものにして自身の歌を詠んでいたかと、
この辺りからも想像するわけですが、
鵜飼舟、鵜舟といってすぐに思い出すのは
芭蕉さんの、

 

おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

 

の句であります。
それで、
芭蕉さんというのは、ものすごい勉強家ですから、
鵜飼いの舟をかつての歌人たちがどのように詠んでいたかは、
知悉していたのではないかと思われます。
そのうえでの、
「おもしろうて~」かと。
それでさらに、
勝手な想像はどこまでも、糸の切れた凧みたいにふわりふわり、飛ぶことになりまして。
古人の歌を読み、
じぶんでも歌を、また俳句を詠み、
この世の儚さを思いつつ、
でもやっぱり、
そうは言ってもなかなか割り切れない。
永遠を思う切なる気持ちが、
古人の歌のこころに思いを馳せ、
それを「いまここ」に詠み、
じぶんもやがてこの世を去って逝かなければならないけれど、
のちに生まれてくる歌詠みたちのみなさま方、
どうぞどうぞ、
わたしのこころも受けついで歌ってください、
と、
それを願うこころが、
本歌取りをさせているのではないか。
そんなことを想像します。
この場合の「こころ」は「情」であると思います。

 

・茹でられて青さ哀しきほうれん草  野衾