永遠なるダンテ

 

多くの人が地上において――偉い事業をした人でも――死ぬ時には暗い思いをもって
暗い中にひきこまれて行く。
これで人生がおしまいだという具合に嘆いて行く人が多い。
精々のところ運命に従うという諦めをもって行くにすぎません。
その中にあって
キリストを信ずる者は死を天への凱旋と考えて死んで行くことができることは、
今申しましたが、
そのこと自体が信仰の勝利の型である。
われわれも最後の眼を閉じて頂いて、
死ぬ時にはこういうふうに光に包まれ歌に包まれながら
天に行きたいものだと思います。
たぶんそういう幸いを私どもも与えられることができるのでしょう。
こういうところを読むと
ダンテがいかに天国の栄光を望み、
それを慕い
それに力を得て生きていたかということがわかります。
地上において他人のパンを食うことがどんな味のするものであるか、
他人の階を昇り降りすることがどんなに足の重いものか、
と言って嘆いたそのダンテの俤を
私ども忘れてしまって、
ダンテの魂が天翔っている喜びを感ずるのです。
前にも申したことですが、
多くの人がダンテを地獄の詩人としてしか知らない。
深刻な顔をして涙を流して人を罵倒したダンテしか知りませんが、
それは地上におけるダンテであって、
ダンテが脱ぎ去るべき生涯に関するものであり、
永遠のダンテの姿――ダンテの本質というものは、天国の喜びをうたっているダンテ
でなければならないのです。
(矢内原忠雄『土曜学校講義第七巻 ダンテ神曲Ⅲ 天国篇』みすず書房、
1970年、pp.516-7)

 

この一文に出合えただけでも、この本を読んできてよかったと思います。
三十年ほど前に、
岩波文庫に入っている山川丙三郎訳『神曲』を読み、
その後、
これは割と最近ですが、
今道友信の『ダンテ『神曲』講義』を読みながら、
『神曲』乃至ダンテに対する印象が微妙に変化してきた気がする
とはいえ、
基本的には、
矢内原が言うところの
「地獄の詩人」
「深刻な顔をして涙を流して人を罵倒」する詩人
としてのダンテ、
という認識から出られなかったように思います。
矢内原のこの講義は、
それこそ滾る血が流れているようであり、
切れば血が噴き出す体の、
(ときに巧まざるユーモアを交えながら)
緊迫した、揺るがぬ信に基づいていると感じられます。

 

・表見せ裏見せ光る枯葉かな  野衾