光と音楽とリズム

 

ダンテの『神曲』を岩波文庫で読んだのは、三十代初めの頃。
「われ正路《ただしきみち》を失ひ、人生《ひとのよ》の羇旅《きりょ》半《なかば》
にあたりてとある暗き林のなかにありき」
訳は、新井奥邃(あらい おうすい)と親交のあった山川丙三郎。
岩波文庫には、ふりがなはありませんが、
元の警醒社版には
《ただしきみち》《ひとのよ》《きりょ》《なかば》
などのふりがながあったような…。
岩波文庫で読んだ後、
警醒社版のもので読み、
前の出版社に勤務していたころ、
山川丙三郎訳、警醒社版『ダンテ神曲』を複製で出版し、
その後、
今道友信の『ダンテ『神曲』講義』を読み、
いま、
矢内原忠雄の『土曜学校講義 ダンテ神曲』を読んでいますから、
けっこう長く親しんできました。
矢内原さんの読みは矢内原さんらしく、
背景の時代とも併せ、
おもしろいわけですが、
わたしがとくに、なるほどと注目したのは、
ダンテが、光と音楽とリズムをたいそう重んじており、
とりわけ光が好きで、
地獄篇、煉獄篇、天国篇のいずれも、
最後は星がでてくる、という指摘です。
ダンテのキリスト教は、
トマス・アクィナスに代表される中世のスコラ神学、スコラ哲学的なものであり、
制約はあるとはいえ、
そこを突破するものが『神曲』にはある
との矢内原の指摘は刺激的でおもしろく、また、
わたしとしては、
ダンテの地獄、煉獄、天国めぐりが、
新約聖書「コリントの信徒への手紙 一」第13章12節、
「私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、
私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります」
との響き合いが感じられ、おもしろい。
ダンテが、
地獄篇、煉獄篇よりも、
天国篇にもっとも力を入れたという指摘も、
うなずけます。

 

・寒月や引き戻すごと猫の声  野衾