若いときに、小林秀雄を読んでいたら、
全集読むべし。これはと思う著者がいたら、主な作品はもとより、
日記や書簡、断簡零墨まで、隅々まで読むことで、著者の人となりが自然と見えてくる、
みたいなことが書かれていたので、
まじめなわたしは、
はい。わかりましたのノリで、
好きな宮沢賢治、柳田國男、魯迅の全集を読みました。
全集の全部を読んだのは、
賢治と魯迅で、
筑摩の箱入りの、箱ごとに色の違うカバーがかけられていた柳田國男全集は、
五分の四ほど読んだところで、
息切れと、興味がほかへ移ったか何かして、
途中で止めました。
あ。
第Ⅰ期の斎藤喜博も全部読んだ。
さてこの頃はといえば、
小林秀雄の言うことは、
まちがってないとは思うけれど、
そうとばかりも言えないなぁという実感がもたげてきました。
どういうことかというと、
目を皿のようにして、
隅々まで読むことをしなくても、
あまり意識せず、てきとうな一冊を手に取り、ゆっくり静かに読んでいけば、
おのずと風景が立ち上がってくる。
風景が立ち上がって来なければ、
それはそれ。
出会えなかっただけのこと。
記憶によるだけの話で恐縮ですが、
小林秀雄は鉄斎の絵を何日もかけて見て、見て、見て、見て、疲れ果て、
挙句の果てに、
階段を踏み外した(どこかの二階だったのでしょうか?)
みたいなエピソードが
たしかあったよう
(違っているかもしれませんが、わたしのなかの小林秀雄像としては実にぴったり来ます。
階段を踏み外したのくだりは、事実でなく、
わたしのなかの小林秀雄像が勝手につくり出した創作かとも思います)
に憶えていまして、
カ、カ、カッコいい!!
って、
若い時でしたから、しびれてまくってしまったものです、
が、
いまは、
しびれたじぶんを思い出し、
若かったなぁと思うぐらいのもの。
本だけでなく、
人も、じぶんも、思い出も、
隅々まで付き合うより、短い時間をていねいに付き合うのがいいような気がします。
離れていた方が、より深く抱けるような気もしますし。
昵近は親近に非ずの訓えは、
人との関係だけではないようです。
・かさこそと乾き這ひずる落葉かな 野衾