先週から今週初めにかけ、久しぶりに故郷秋田に帰省しました。
秋田でも横浜でも、
朝のルーティンは変らず、
このブログは休みにしましたけれど、
五時過ぎには、
ウォークマットⅡによるツボ踏みを行います。
以前、
ツボ踏みの板ウォークマットⅡを横浜から持っていったこともありましたが、
いかにもかさばるので、
先ごろネットで購入し、前もって秋田の住所に送っていたのでした。
さて、早朝の薄暗いなか、
プラスチック製の板にある突起を踏みながら、
ひょいと柱に目をやると、
(ツボ踏みに要する時間は30分。けっこう長い。
当初痛くて脂汗が噴き出したものですが、三年以上続けていますから、
この頃は、鼻歌交じり。
必然、辺りをきょろきょろしながら板上を動くことに)
中学のときにもらった賞状に目が留まりました。
英語の暗唱大会で優良賞をいただきました。
わたしの田舎では、
家族のだれかがもらった賞状を額に入れて鴨居の上に掲げておくのが習い。
まじめなわたしは、
がむしゃらに英語を暗記し大会に出場、
結果、優良賞を授与された、
めでたしめでたし。
それはともかく。
きょうの話は、その賞状に記された一人の名前。
川上富三。
賞状の文言の下に記された授与者の名前を見、
どこかで目にしている気がしました。
しばらく眺めているうちに、ハッと気がついた。
まだちゃんと読んでいませんが、
わたしが所持する『石川理紀之助 人と生涯』の著者ではないか、
いや、絶対そうだ、
確信に似たものがもたげてきました。
横浜に帰り、さっそく確認したところ、やはりそうでした。
下巻に記された略歴を見ると、
1915年(大正4)生まれ。
秋田の小学校、中学校の校長を歴任されています。
賞状に記された年は、昭和47年とありますから、川上さんは、このとき57歳。
『石川理紀之助 人と生涯』の「はじめに」に、
この本の執筆を促した恩人として森信三の名前が出てきます。
森信三は、
愛知県出身の哲学者・教育者、西田幾多郎の教え子であり、著作も多く、
なによりも、
新井奥邃を幻の師と称し敬仰していた人として
わたしはこれまで認識してきましたが、
その森信三が、
かつて秋田を訪れたことがあり、
川上富三という人に石川理紀之助の伝記を書くように勧めていたことなど、
知る由もありませんでした。
これもまた一つの、不思議な縁であると思います。
・寒月やめくれるほどの表裏 野衾