ひたすら真理の人

 

私ども地上における現実生活もこれに準じて考えるべきであり、
それは
自分と考えの違った人、
意見の違った人と争いますが、
それは真理を愛するがゆえの争いでなければならない。
だから意見はちがってもその人物を尊敬し、
真理に対する愛において友達でありうるわけなのです。
なぜそれが人間的な憎しみにまで堕落するか
といえば、
先ほど言ったように
利益とか勢力とかを愛して真理を愛しないからそういう争いになる。
学者でも本当に真理を愛して真理を喜んで学問が好きで学問している人と、
学問と自分の地位とをごっちゃにして、
学問をもって自分の勢力を得るための手段としてやっている人とは非常な違いですからね。
それは
その人の学説いかんなどということで少しもわかるものでありません。
学説としてみると実に理想家的な学説をのべている人でも、
その学説によって自分の利益や勢力を計る手段としている人の学問というものは
鼻もちならん。
これに反して
世間からは唯物論者・無神論者・共産主義者と言われている人も
本当に真理を愛している人であるならば、
その学問は美しい。
われわれの友達になれる。
私などでも理想主義者とかキリスト者と言われていますが、
そういうことを自ら標榜し世間でもそう認めている人よりも、
無神論者、唯物論者の中に
本当の友達を幾人かもっています。
(矢内原忠雄『土曜学校講義第七巻 ダンテ神曲Ⅲ 天国篇』みすず書房、
1970年、pp.274-5)

 

無教会派のキリスト者でもあった矢内原忠雄は、
日中戦争が勃発した1937年に、
ある講演においてなした
「汝等は速に戦を止めよ!
……日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」
などの発言が問題視され、
追放されるごとく、東京帝国大学教授を辞任しました。
その後、自宅を開放し、
少数の若者相手に行った「土曜学校講義」の話は、
矢内原が置かれた当時の状況と合わせて考えてみるとき、
ことばの重さ、深さが伝わってきます。
また、
引用した箇所のとくに後半部分、
「世間からは唯物論者・無神論者・共産主義者と言われている人も
本当に真理を愛している人であるならば」
は、
根本において、
新井奥邃とも共振し、通底していると感じられます。

 

・さわがしき脳の内なる落葉かな  野衾