薄い学術書

 

大学一年生、いや、
日本経済史のゼミを選択した三年生になってからでしょうか、
岩波文庫の、
山田盛太郎著『日本資本主義分析』
という本を手に取りました。
そんなに厚い本ではなかった。
文庫だし。
軽い気持ちで。
マルクスの『資本論』を相当読み込んだつもり
がおそらくあって、
鼻息荒く手に取ったのではなかったか
と思います。
ところが、
なんというか、
ことばがぶつぶつ切れて、
やたらに記号が多く、
なんだこれは? が初見の印象。
しかし、
しぶとくしがみつき、読み返しているうちに、
なんとなく著者の言いたいことが理解できるようになった、
気がしました。
今にして思えば、
それは理解したのではなく「気がした」だけで、
ほんとうに分かる、腑に落ちる、
こととはちがっていた気がします。
これまた「気がし」たではありますが。
それはともかく。
薄い学術書、短い記述のコンパクトな学術書、注の少ない学術書は、
けして分かりやすくはない。
さらにいえば、おもしろくない。
わたしの実感です。
『日本資本主義分析』はむかしの話ではあるけれど、
いまも同じ問題が続いているのではないか。
さらに深刻化しているかもしれない。
ほんとうに学ぼうとする者が、新しい世界に触れ、理解し、
ストンと腑に落ちることを体感、体験するには時間がかかるし、
だから、
注はぜひとも充実していてほしい。
注を省くなどもってのほか。
注に頼るような本は嫌いだといった著名な学者がいましたが、
その人が翻訳した学術書の注は少なくなかったし、
行き届いてもいました。
注にこそ、学術書の本領が発揮され、
学び手を導いてくれるものと信じたい。

 

・さかしらをどつどどどどう春疾風  野衾

 

眠れぬ夜は

 

からだが、頭が疲れていると、たまになかなか寝付けないことがあります。
すると、
どうでもいいようなことが次々脳裏をかけめぐる
ことになり、
考えないようにしよう考えないようにしよう
と思うと、
そのことに一所懸命で、
よけい頭が冴えてくることに。
これ悪循環。
そういうとき、
わたしは、
じぶんの高校時代を想像し、
たとえば、
クラス別の球技大会の野球にピッチャーとして出場
(実際はキャッチャーをやりましたが)し、
球速180キロメートルの剛速球を投げる。
みんな唖然とする。
打者はバットに当てることすらできない。
それもそのはず。
球速180キロメートルは、
人類史上、だれも達成したひとはいないのですから。
はたまた逆に、
超スローボールで、
さらに、
ケサランパサランのようなふわふわした球種で、
打者がバットを振ると、
バットが起こす風でボールがあらぬ方向へそれてしまい、
空振りになるので、
だれもヒットが打てない。
みたいなことを考えているうちに、
寝付けることもあり、
そうでないときもあります。
(注)球速180キロメートルの剛速球の想像は楽しいのですが、
問題は、それだと、キャッチャーになるひとがだれもいないということ。

 

・馬の糞乾き天まで春疾風  野衾

 

レジリエンス

 

もともとは、弾力性、復元力、回復力、などを表す用語で、
心理学で多く使われるようですが、
いまは広く、
社会、経済、経営などの分野においても。
さもありなん。
あまりそういう方面の本を読まぬわたしの目にも
たびたび触れるようになりまして。
先日、
自宅のトイレに用足しに行ってしゃがんでいるとき、
不意にこの言葉を思い出した。
レジリエンス。
弾力性、復元力、回復力か。
皮膚をふくめ、
にんげんのあらゆる部位の皮。
頭皮。耳の裏。口の周り。内臓。肛門とか。
連想は際限なく。
歳をとることはしょっぱくなること、
という、
しりあがりさんの名言がありますが、
歳をとることはまた、
レジリエンスの低下を招くようでもあり。
切れるとなかなか回復しない。

 

・自転車や抜きつ抜かれつ春疾風  野衾

 

寒いけど

 

きょうも寒そうですが、
ここ横浜辺りは明日から暖かくなりそう。
まずは、
ほ。
この頃は、
天気予報をこまめにチェックし、
使い捨てカイロをふくめ、
着るものを替えるようにしています。
若いときのように体温調節がうまくいきません。
それはともかく。
晴れた日の日差しの強さは、
冬のものとはちがっています。
住まいするところが小高い山の上なので、
日差しの具合がよく分かります。
春の季語は多くあり、
それは、
ちょっとした変化に春の兆しを感じ分けることの証でもある
と思いますが、
日差しの強度が、とくに光合成をする植物など、
いのちあるものたちに、
ことばによらず、
春を知らせてくれているようです。

 

・悲しくもないのに涙春疾風  野衾

 

使い捨てカイロ

 

交差点で信号待ちをしているとき、
生足姿の女子高校生を見るたび、驚き、少し感動します。
寒さより恰好
がだいじなんでしょう。
しかもこの頃の流行りはどうやらミニスカート。
寒さをこらえている風もありません。
一方わたしはといえば、
へその辺りと、
へその裏の辺りに使い捨てカイロを貼っている。
どんなに寒くても、
だいたい二枚でしのげる。
持続時間12時間と書いてありますが、
実際はそれ以上持ちます。
なので、
帰宅してから寝るときもそれをしたまま就寝、
と、
まるで電気毛布のごとくポカポカで。
朝はさすがに冷めているものの、
わたしは試していませんが、
消臭剤として使え、
また土壌の改良にも効果があるとのことですから、
なかなかの優れもの。
若いときは今ほど関心がなく、
遠目で眺めていたのに、
このごろ手放せないアイテムの一つ。
きょうも寒そうです。

 

・橋を越え川面撫でゆく春の風  野衾

 

史(ふみ)の国

 

太史公言う。「死を知ればかならず勇あり」という。
しかし、
死ぬこと自体がむずかしいのではなく、
死に対処することがむずかしいのである。
藺相如は璧を手にして柱をにらみ、
また秦王の左右を叱咤するにあたり、
その結果がただ誅殺にすぎないことを知ったのである。
しかるに、
士の或る者は卑怯であって、
あえて勇気を出そうとしない。
相如は、
ひとたび勇を奮って威を敵国に伸べ、退いては廉頗に譲って、
その名は泰山よりも重いのである。
彼は智勇に処して、この二つを兼ね備えたものというべきであろう。
(司馬遷[著]/小竹文夫・小竹武夫[訳]
『史記6 列伝 二』筑摩書房、ちくま学芸文庫、1995年、p.36)

 

アウグスティヌスの『神の国』に比していうならば、
中国はさしずめ史(ふみ)の国。
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」
という言葉がありますが、
そのもとになった
「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」は、
王彦章(おうげんしょう)のもの。
史記はもとより、
たとえば、論語や三国志演義を読んでも、
いまはどうか分からねど、
歴史に名を残すことを行動原理にしている人が少なくない、
少なくなかった、
気がします。
新型コロナに関していちはやく警鐘を鳴らし、
みずから感染して亡くなった医師・李文亮さんもその一人だったでしょうか。
しかし、
考えてみれば、
そうした人はきっとやはり少なくて、
上でひいた藺相如もそうですが、
だからこそ、
歴史に名を残した
ということが言えるのかもしれません。

 

・歩数計チエツクたびたび春近し  野衾

 

諸刃の剣

 

移動通信システムと「個別化したネットワーク形成」は諸刃の剣であり、
目の前にいない他者と連絡がとれると同時に
目の前にいない他者に監視されることにもなる。
そして、
「距離を隔てた存在感」がもたらされ、
「旅行者は常に連絡に応じることができ、
したがって常に監視下に置かれることになる」[Molz2006]。
そうした機械になじむことで、つなげられ、
他者とともに家に居ることになり、
家は世界を横断する「場(サイト)」になる。
そこでの他者は、
不思議なことに、その場に居るかと思えば居ないし、
ここに居るかと思えばあそこに居るし、
近くに居るかと思えば遠くに居るし、
家に居るかと思えば外に居るし、
接しているかと思えば離れている。
(ジョン・アーリ[著]/吉原直樹・伊藤嘉高[訳]
『モビリティーズ 移動の社会学』作品社、2015年、p.330)

 

きのうにつづき、
ジョン・アーリ『モビリティーズ 移動の社会学』から。
そこに居るかと思えばそこには居らず、
こちらに居るかと思えばこちらにも居ない、
それってな~んだ?
答え:忍者。
ブ~。
みたいな。
冗談みたいですが、
いまの時代の他者は、忍者に近いかもしれない。
いつでも連絡がとれるということは、
いつでも監視されているということと裏表。
監視されることを避けるには、
とどのつまり、
いつでも連絡をとれる状態を遮断するしかないようです。

 

・だまつこや鍋はアルミが似合ひけり  野衾