創立40年

 蓋の下甕のぼうふら月見えず
 一昨年、『対話が世界を変える 聖エジディオ共同体』を刊行しましたが、その聖エジディオ共同体が創立40年をむかえ、昨日イタリア文化会館にてパーティが催されました。
 ドキュメンタリー映画が上映され、本も売れ、料理も美味しく、充実したパーティでした。
 政治の時代であればあるほど、対話の重要性を見なおす必要があります。ただいま『日中教育学対話』を編集中。
 肩書きは剥がれ日照りに齢(よわい)立つ

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転がる石

 ぼうふらが涙浮べし日照りかな
 朝晩の気功で、背骨をゆらゆら、体をくねくねさせていると、体が薄〜くなって、透けて(見えませんが)見えるような気がします。
 本を売り、CDを売って、部屋の風通しがよくなりましたが、体の風通しもこころなしかよくなったような…。
 40分の築基功を終え目を開くと、手のひらがサラミソーセージを輪切りにしたときのような状態。血行もよくなったのでしょう。
 A rolling stone gathers no moss. ということわざを学校で習いました。

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キルディーンとヘレン

 梅雨晴れ間隣りの陰茎目撃す
 ヘレンはヘレン・ケラー。獣のようなヘレンを「調教」したのはサリバン先生ですが、ヘレンはサリバン先生の「調教」そのものの行為のなかに潜むものをきちんと感じとっています。
 キルディーンも、手をつけられないほどわがままでやんちゃで、いたずらっ子で、王様もかんむりもあったもんじゃねーっ(ここんところが痛快!!)て感じですが、でも、ゼロではないんですね。鷲たちとのくらしのなかで、鷲たちに教えられるというよりは、大事なことに自分で気づいていきます。
 キルディーンもヘレン・ケラーも教育の根本を指し示していると思います。

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身軽

 人込みを歩いてばかり梅雨晴れ間
 本やCDを一度売りに出したら、勢いづいたのか、休日になるたびに、これも出そう、これも、と、つい時間が過ぎてしまいます。
 本棚やCDラックを眺めているようですが、そうとばかりも言えません。記憶の糸をたどり、これはどんな内容だった、これはこんな旋律だった、あの時の感じ方は、今のわたしにとって意味があるだろうか、今読んだり聴いたりしたら、回想のほかに新しい意味を見出せるだろうか、と、自分と対話しているようで、けっこう楽しい時間です。
 本やCDを片付け、部屋の風通しがよくなると、気持ちまで軽くなるような気がします。

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気をあつめる

 黄金色サクッと割れしメロンかな
 先日、ラヤ・サクラヤさんで、天才りなちゃんに会いました。いつものように涼しい眼をしています。りなちゃんは、天才らしく、ことばよりも、眼でお話をします。
 りなちゃんと気をあつめる遊びをしました。お互いに向き合い、えんやーどっとに似た動きで、両手を近づけ気を集めるのです。りなちゃんもわたしも真剣そのもの。
 そろそろ、あつまったかな?
 まだじゃない…、と、りなちゃん。
 タコのように、クラゲのように、ふにゃふにゃくねくねゆらゆらふわふわ…。
 いいかな? いいかもね。二人しゃがんで、わたしは財布から1円玉を取り出し、右手を返して手首にのせ、ゆっくり気を充填させます。すると、どうでしょう。ピョン! りなちゃんとわたしは顔を見合わせ大笑い。二人の遊びはずっとつづくようでした。

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大板

 紫陽花の風や吹きぬけ気功体
 体調不良の折、西式健康法を生活にとり入れ、西式による体操をしたり、温冷浴をしていたのですが、その一環として、平床寝台と木枕もつかっていました。
 平床寝台といえば、聞こえはいいのですが、単なる板です。平らな板の上に寝ることで、背骨の歪みをとるというもので、この頃から、人間にとって背骨は相当重要らしいと思いはじめました。
 さっそく東急ハンズに行き、厚さ3センチ、畳1畳より一まわり大きな板を買い、届けてもらいました。
 ずっとその板の上に寝ていた(本当は、板の上に直に寝るほうがいいらしいのですが、わたしは板の上に煎餅布団を敷いていました)のですが、板の角に足の親指をぶつけることが度重なり、それはそれは痛く、そろそろ止めどきかなと考え、今朝、粗大ゴミとして出しました。

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軽み

 浴衣よりはだけて肌の青さかな
 このごろは、軽いもの軽いものと、こころも体も求めているようです。
 肉はほとんど食べませんし、魚も大きい魚よりも小魚。読む本も、ノーベル文学賞を受賞した人の重々しい文学よりも、賞などと関係なく、軽みがあって味わい深いもの。音楽も、若い頃聴いたプログレッシブ・ロックよりも、サム・クックのような伸びやかなボーカル。
 若い頃は、重々しいものが深く、人生の意味みたいなものが篭められているような気がしました(そして、読む本も聴く音楽も、重いもの重いものと重量ばかりが嵩んでいきました)が、そうでもないような気が、今はします。
 重いものが深く、軽いものは浅い、わけではないのですね。
 軽いものでも深いものはあります。透明ですぐそこに見える小石がずっと深いところにあることだってあるし、実は底が浅いのに濁っていて、さっぱり見えないこともあります。
 こういう、心境の変化とでもいったらいいでしょうか、これも骨折の怪我の功名、また、ずっと続けている気功のおかげかと思います。
 先だって、本2000冊、レコード・CD350枚を売りました。

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