先週8月8日(土)の毎日新聞に春風社の本が取り上げられました。
取り上げてくださったのは、
装幀家の菊地信義さん。
取り上げられた本のタイトルは、
『16世紀後半から19世紀はじめの朝鮮・日本・琉球における〈朱子学〉遷移の諸相』
菊地さんは、
この本の装幀について次のようにコメントしています。
「長々しい書名に籠(こ)めた著者の苦心を、
赤と黒の箔(はく)押しで解決したカバー。
風合いのある紙へ濃密な箔色が食い込み本の物質感を顕示する。
デザインの強度、全開。」
装幀したのは、長田年伸さん。
以前、
春風社の編集者としていっしょに仕事をした長田さん。
退社後、自身でさらに勉強を重ね、
いまは独立して仕事をしていますが、
このように高く評価された
ことが我がことのようにうれしく思います。
*
さて弊社は、
8月12日(水)~16日(日)を夏季休業とさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。
どちら様もどうぞご自愛くださいませ。
・早苗饗の本家の庭の広さかな 野衾
真の歴史的時間とはけっして単なる出来事の時間ではない。
むしろ歴史的時間についての特有の意識は、
考察という光源からに劣らず
意欲とその遂行という光源からも放射されてくるのである。
ここでは
観想という契機が活動という契機と解きがたく絡みあっている。
つまり、
観想は活動によって、
そして活動は観想によって身を養っているのだ。
(カッシーラー[著]/木田元・村岡晋一[訳]『シンボル形式の哲学 三』
岩波文庫、1994年、p351)
個人の歴史も集団の歴史もカッシーラーのいうとおり、
観想の営みだけでなく、
意欲とその遂行の光源から光を当てることにより
ふかくその意味を開示するものなのだろう。
・町外れ社をつつむ蟬しぐれ 野衾
ふるさと秋田の新聞に月1ぐらいのペースで原稿を書いていますが、
これぐらいのペースだと、
うんうん、うなされることもありません。
四年前、
宮城の新聞社から頼まれたときは、
週1でしたから、
夜中にガバと起きたりすることがしばしばで、
その緊張度といったら並大抵ではありませんでした。
が、
いま思えば、
それもいい経験でした。
かつても今も、
たとえばこのブログの文章でも、
まずは一気呵成に書き上げます。
一気呵成ということがないと、じぶんで読んで面白くない。
一気呵成に書いた後、
固有名詞や年代、引用文、誤字脱字、
字句の使い方など、
細かいところを入念にチェックします。
チェックの方が時間は圧倒的にかかりますが、
一気呵成の土台があれば、
文章の個性は消えてなくなることはないと信じます。
そうやって書いた文は、
記憶の海にゆっくりと沈んでいくようです。
・梅雨空に飛び込むごとく烏かな 野衾
言語の生命が単に感性的なものであったためしは一度もないし、
だからといってそれは純粋に精神的なものでもありえない。
それはつねに身体であると同時に心でもあるようなものとして、
つまりロゴスの身体化としてしか捉えられないのである。
(カッシーラー[著]/木田元・村岡晋一[訳]『シンボル形式の哲学 三』
岩波文庫、1994年、p.221)
両親はもとより、
電話で秋田の人と話すときは、秋田の方言で話す、
というよりも、
すぐに方言が口をついて出る。
このごろ思うのは、
方言のニュアンス、イントネーション、アクセントは、
文字では表現不可能だということ。
たとえば「い」一音の豊かさといったら、
計り知れないものがあり、
とても文字には表現しきれない。
物知り顔でえらそうなことを言う人に向かい、
あるトーンと抑揚で
「いいい~~」といえば、
どんな単語よりも、
相手の発言をたしなめ、
冷や水を浴びせることができる。
いまとりあえず「いいい~~」と表記したが、
そもそも表記不能だ。
方言はまさに、
「身体であると同時に心でもある」
・町ひそと暮らしの香あり吊りしのぶ 野衾
友人の奥さんが介護施設の施設長として働いており、
新聞の取材に答えた記事を
ネットで読みました。
記事中
「入所者は、家族に会えないことへの不安が健康面に大きく影響する。
面会を禁止にしても、
家族と顔を合わせ、言葉を交わせる場はつくっていく」
との彼女の言葉が紹介されています。
ふかく共感しました。
わたしの両親は秋田で二人住まいですが、
ちかくに父の弟夫婦が住んでおり、
また、
週に一度はわたしの弟があれこれ食料などを買って訪問し、
食事を作ってあげたり、
かゆい所に手が届く世話をしてくれるおかげで、
年齢から来る痛みはあっても、
夫婦仲良く暮らしています。
ありがたいことだと感謝しています。
とおく離れているわたしにできることといえば、
ときどき電話をかけるぐらい
ですが、
父も母も、
わたしの声を聴くだけで喜んでくれますし、
わたしも、
ふたりの元気な声を聴けばうれしい。
家族との触れ合いは、
まず声なのだなと実感します。
声を聴き、
言葉を交わすことは、
いわば、
こころの手のひらに触れるようなもの。
コロナ禍で、
そのことの意味がはっきりしてきたように思います。
・雨止んでそろり出番の蟬の声 野衾
「コロナ禍」という文字をこのごろよく目にするようになりました。
この「禍」ですが、
白川静『字統』によれば、
残った骨に祈ることがもとの意味のようで、
「禍」の右側「咼」だけで「わざわい」
と読みます。
なぜ残骨に祈ることが「わざわい」につながるのか?
そのことにより、
死霊の呪能を駆使して、
ひとに禍殃(かおう=不幸な出来事)を与えようとするものだから、
ということになります。
また、
「咼」には、
「くぼんだもの、めぐるもの」の意味があり、
したがって、
これにさんずい(氵)が付けば「渦(うず)」になります。
こちらの意味の系統に「鍋」があり、
これは、
金属でできていて、
なかがくぼんでいるもの、
というわけでしょう。
ちなみに「コロナ禍」は「コロナか」
・アメリカ詩ゲラのめくりの梅雨湿り 野衾







