読み継がれる本

 

全体主義の支配している国ですべての人が信じることのできる唯一の規則は、
ある機関が公的なものであり人によく知られていればいるほど
その保持する権力は小さいということである。
この規則によれば、
広く知られている成文憲法を
国家の最高の権威として認めているソヴィエトは
ボリシェヴィキ党ほど権力を持っていない。
そしてまたこの党は、
党員を公募し、
すべてのものから真の支配階級と見なされているのだから、
秘密警察ほど権力を持っていない。
権力はつねに公開性がなくなるところから始まるのである。
(ハンナ・アーレント[著]/大久保和郎・大島かおり[訳]
『新版 全体主義の起原 3 全体主義』みすず書房、2017年、p.172)

 

情報公開の重要性について、改めて考えさせられる。
すぐれた政治哲学者であるハンナ・アーレントの本の魅力は、
なんといっても、
見聞を含めての実体験とそれに基づく思考が、
あざなえる糸のごとくに展開すること。
最初に英語版で発表されたのが一九五一年というから、
いまからちょうど七十年まえ。
しかしいまも途切れずに読まれている
ということは、
それだけの理由があると納得する。

 

・春寒し遮断機の音高鳴れり  野衾

 

上書きの時代

 

先週金曜日、
『都市科学事典』発刊を期し、
出版記念オンライン・シンポジウム
「トランジションシティ 都市をめぐる知の交差」が開催された。
わたしは聞かずじまいだったが、
パネリストのお一人が、都市=エンサイクロペディア、
ということをおっしゃったそうだ。
また「上書き」という言葉が印象にのこったと、
シンポジウムを聞いた者から教えられ、
我が意を得たりの感を深くした。
政治家をはじめ、この頃は、言葉が薄く感じられるようになった。
パソコン、スマホ、ブログ、ツイッター、フェイスブック
が普及したことにより、なにが変ったか。
いろいろな論点があるだろうけれど、
言葉が「上書き」されることがふつうになったことは、
見逃すことのできない重要な点だと思う。
たとえば政治家の発言をテレビで見ていると、
ひとつひとつの発言が、
のちに上書きされる可能性を残しつつなされている
の感が否めない。
小学校で習った5W1H
「Whenいつ」「Whereどこで」「Whoだれが」「What何を」「Whyなぜ」
「Howどのように」
はどこに行ってしまうのだろう。
ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』のなかに、
ヒトラーとスターリンが、
二人とも共通して事実に関心がなかった、
ということが記されている。
嘘を常習とする人間にとっては、
事実はいつでも捏造可能ということなのだろう。
上書きが日常化されてしまえば、
嘘をつくことが横行し、痛みを伴わなくなってしまう。
本を焼くものはやがて人を焼く、
と、かつてハイネは言った。
本を焼く、とはまた、言葉を焼くことだ。
言葉を焼くのは、
その裏付けとなる事実を焼き、歴史を歪めることに繋がる。
そうならないためにも、
5W1Hの基本精神を大切にし、
紙の本で残したい。
紙の本は、事実を後世に残すための、
また、
上書きという捏造を許さぬための紙碑なのだ。

 

・春寒や上り列車の遠ざかる  野衾

 

小さな発見

 

日々の暮らしのなかでだれに教わるでもなく、
ごく小さなことを発見して、喜んだり、驚いたりすることがありますが、
きのうのこと、
ああやっぱり、と合点が行くことがありまして。
食事をするとき、
行儀の悪いことながら、
なんとなく足を組んでいるときがあり、
あ、いけない、と思って、
組んでいる足をふつうに戻す。
ところが、
なにか考え事をしながらだと、
足を組んでいることをついつい失念してしまい、
すると、
痛!
いてててて。
舌の端を噛んだり、頬の内側を噛んだり、
そういうことが間々あります。
外で食べているときもありましたし、
こたびは家のなかで起きました。
足を組みながらの食事は禁物、要注意、そのことの
ほんの小さな発見でした。

 

・沈丁花いつもの路地の垣根越し  野衾

 

あるじなしとて

 

国道一号線の裏通りに住んでいらっしゃった老夫婦が、
少し離れた
(といっても、ゆっくり歩いて五分とかからない)
マンションに引っ越しをされました。
以前はよくお目にかかり挨拶をしていましたが、
少し離れただけで、
(そうか。コロナのせいもあるか)
ここのところお目にかかっていません。
そのご夫婦のことを思い出したのは、
先月二十八日の帰宅時、
静かな裏通りを歩いていたら、
不意に沈丁花の香りがし、立ち止まったことがきっかけ。
そうだ、ここに沈丁花があった。
そうか。
老夫婦が住んでいた家は壊され、
その後あたらしい住まいが建てられましたが、
沈丁花はそのまま元の場所にあって、
なつかしい香りを届けてくれます。

 

・宵闇にわたしここよと沈丁花  野衾

 

漢字の淵源

 

古代の社会は、ある意味では巫術(ふじゅつ)の社会であった。
すべてのものに霊があり、
互いに感応し、影響する関係があって、
つねに識(し)られざるものの攻撃に備え、
その攻撃を打破しなければならぬという状態にあった。
そのような事態に対応する方法は巫術であった。
その巫術的な世界をどの程度に理解するかは、
古代文字の理解の一の関鍵(かんけん)となる。
そのような世界観への理解がなくては、古代の文字の理解は不可能である。
(白川静『漢字の体系』平凡社、2020年、p.188)

 

白川さんが遺作のようにして書いた『漢字の体系』。
一文が短く、
漢字に籠められている精神を後世に伝えたい
との気迫が各所に感じられる。
白川漢字学のエポックは、
なんといっても「サイ」
(「口」に似ているが、「口」でなく。パソコンで入力しても出てきません。
祝詞を入れる容器を表す。
「口」の縦棒二本が、上の横棒の端から少し上にはみ出している)
の発見だと思われるが、
そのことを含め、この本では、
漢字の由って来たるところが体系的に説明されていて面白い。
ここに東洋の祈りの淵源があると思われる。

 

・眺むれば今あけぼのと山笑ふ  野衾

 

宿題

 

このブログ、楽しんで書くときもありますが、
いつでも、
というわけにはいかず、
しかし、
だれから頼まれたわけではなく、
幾つかの理由から書くことの意味があると信じ、
じぶんで決めたことなので、
悶々しながら書くときもあるけれど、
してみると、
自らに課した宿題みたいなものかもしれません。
宿題といえば、
わたしは、
対談や鼎談、座談会の折に、
事前にプロットを用意し参加される方にお見せし、
打ち合わせをするようにしていますが、
考えてみれば、
これを作成するのも、
自らに課した宿題のひとつ。
また、お話しくださる方への礼儀だと考えています。
プロットができ、
打ち合わせが済むと、
六割がた、対談、鼎談、座談会は終わったようにも感じられ。
あとは本番で、
相手の方の話に耳をかたむけ、
相手の方の表情に同機しながら自由に遊ぶだけ。
今月七日(日)に、
『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』の訳者お三方と
座談会を行うことになっています。
テーマは、
「「悪の凡庸さ」とリーダーシップ」
内容は、
後日『図書新聞』に掲載予定。

 

・図書館を出でてとつぷり月おぼろ  野衾

 

母の同じ話

 

週に三回、とくに用事がなくても、
ご機嫌うかがいを兼ね、秋田の家に電話を入れます。
先日こんなことがありました。
電話には、
居れば必ずといっていいほど父が出る
のですが、
その日は母が出て、
かかりつけの病院に入った折、
いつも診てもらっている院長先生から、
息子たち(わたしと弟)のことを訊かれたと言い、
声が弾んで、
それはそれは嬉しそうでした。
「そうか。そうか」
とだまって聴いて、
それから電話を切りました。
つぎに電話をしたとき、
この日も、父がちょっと離れたところに居たらしく、
母が出た。
そして、
二日前に聴いた話を、
また嬉しそうに語り始めました。
若い時ならすぐに、
「かあさん、その話、このまえ聴いだよ」
と遮っていたかもしれません。
いや、
きっと、そうしていたでしょう。
ところが、
母があまりに嬉しそうに話すので、
遮るタイミングを逸した、
というよりも、
嬉しそうに話す母の声を聴くのが、嬉しく、また楽しいので、
だまって聴いて「そうか。そうか」
と相槌を打ちました。
情報としては繰り返しでも、
それを話すときの体と心は日々に変化します。
このブログにしても、
遡って見ればずいぶん繰り返しが多い。
それだけ深く心に残っているということでしょう。
ましてそれが母の語る話となれば
味わいは一層深く、
華やぐ母の心に寄り添い共感を覚えます。

 

・高速道時は後ろへ花万朶  野衾