同感

 

私の考では、禪宗は、佛教の思想を主體として、
それに老子・莊子、
特に莊子の風味が加はつて、彼の如き風味の者になつたと思うて居る。
然しそれがおもしろいか、おもしろく無いか、
眞理であるか、眞理で無いかといふ事が最も重要なる問題である。
眞理に叶つて居り、おもしろい者であれば、
それで宜しいのである。
基督教の聖書に就いても、同じやうな事を言ひ得られる。
繫辭傳に就いても、同じわけで、
たとひ孔子の製作で無く、誰の製作であるとしても、
少しも構はぬのである。
(公田連太郎[述]『易經講話 五』明徳出版社、1958年、p.112)

 

易経の「易」は、変移の意であり、
したがって易経は、
変移の理法を説くことを主眼としている。
それは人事に限らず宇宙万般にわたる。
公田連太郎の『易經講話』は、講話とあるとおり、
語ったものをまとめたものであるから、
やたらと繰り返しが多い。
しかし、
このひとは、易というものに心酔しており、
だもんだから、
繰り返しが頻出してもうるさく感じられない。
(たまに感じる)
引用した箇所でも分かるように、
基本的に常体だが、
公田さんがほんとうに重要だと思って語るところは敬体になる。
これがまたなんとも味があって楽しい。

 

・ひがしにし日の移ろいを花菜かな  野衾

 

ん! どいうこと?

 

むかし田原俊彦の歌で『ハッとして!Good』という歌がありましたが。
それと直接関係はありませんが、
ハッとしたことはハッとした。
下の写真がそれ。
「日本火曜市開催中?」
日本…? 日本…?
アッ!!
そうか。
そういうことか。
よく見れば、そういうことなのでした。

 

・暖かや珈琲の香にチェーホフ  野衾

 

鶯

 

一週間ほどまえから鶯の声が聴かれるようになりました。
天気予報によれば、
きょうの最高気温の予想は23℃、
五月中旬の陽気だとか。
桜の開花も例年にくらべだいぶ早まっているようだし、
鶯もあわてて鳴きだしたのかもしれません。
まだホーホケキョには至りませんで、
ホーホーとかホーホケぐらい。
それでも鶯の声を聴けば、
気分はすっかり里山で。
小川に清冽な水が流れ、鶏が遊び、子らが飛び出してきます。
いまは朝の五時半ですが、
もう聴こえています。

 

・鶯の来鳴き里山全きかな  野衾

 

世界という散文

 

だから世界の相貌は、紋章、文字、暗号、晦冥な語
――ターナーによれば「象形文字(ヒエログリフ)」――
によって覆われるのである。
かくして直接的類似の空間は、
開かれた大きな書物のようなものとなる。
そこには無数の文字記号(グラフイスム)がひしめきあい、
ページ全体をつうじて、奇妙な形象が交叉し、
ときには反復されるのが見られるのだ。あとはそれらを解読するだけでよい。
(ミシェル・フーコー[著]/渡辺一民・佐々木明[訳]
『〈新装版〉言葉と物 人文科学の考古学』新潮社、2020年、p.51)

 

後漢の許慎(きょしん)の手になる最古の漢字辞典『説文解字』
の成立が西暦100年。
白川静の『漢字の体系』が上梓されたのが2020年。
『漢字の体系』では約1800字について、
すべて『説文解字』の説明と白川さんの説明が対比されており、
漢字が単なる記号を越えて、
漢字そのものが、
漢字成立に至るまでの当時の世界観、宇宙観を表すものであると納得する。
まさに本はタイムマシン。

 

・春泥の足指まつかをぬるりかな  野衾

 

人間になること

 

まことに強制収容所の経験は、
人間を人間の顔をした動物の一種に変えることは事実可能であり、
人間の〈自然〉(本姓)が〈人間的〉であるのは、
きわめて非自然的なもの、
すなわち人間になることが人間に許されている場合のみである
ということを明示している。
(ハンナ・アーレント[著]/大久保和郎・大島かおり[訳]
『新版 全体主義の起原 3 全体主義』みすず書房、2017年、p.270)

 

教育哲学者の林竹二は、
小学生に向かっても、寿町の労働者たちに向かっても、
「人間について」の授業を行う際に、
「蛙の子は蛙、ということわざがありますが、人間の子は人間と言えますか?」
という問いを発した。
蛙の子はオタマジャクシで魚類だから、土の上では生きられない。
それなのに、
成長して蛙になれば、
土の上でも生きられる。
いのちの不思議、神秘に林自身が打たれての質問に、
授業を受けるものはだれもかれも、
こころをわしづかみされた。
わたしは、
授業そのものは受けていなくて、
授業を記録した本で知っただけだが、
それでも、
こころをわしづかみにされたまま現在に至っている。
人間は、
「人間である」ということはなかなか言えない。
人間であろう、人間になろう、
そう思考し意欲するとき、
その過程、途上にあるときに、
かろうじて「人間」とよべる、
のかな?
アーレントの本が突きつけるものは、
ひとことで言えば、
「人間の子は人間と言えますか?」

 

・詩も何も尽くしがたきよ雪解川  野衾

 

人文書と『聖書』

 

ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を読んでいたら、
「ラザロの復活」
という言葉が不意に出てきました、
二度まで。
忘れもしません。
ドストエフスキーの『罪と罰』中、
ろーそくの灯の下、
殺人者ラスコーリニコフと娼婦ソーニャが語り合う場面で、
『聖書』にあるこの箇所を
ソーニャがどれほど生きる支えにしているか
を、
ドストエフスキーは印象深いタッチで描いています。
『罪と罰』をはじめ、
欧米の古典文学は『聖書』の解説書とも感じられ、
大学に入学してすぐに
『聖書』を買い求めました。
欧米の、
とくに古典文学に対する考えは基本的に変わっていません。
ところで、この視点は、
なにも文学に限ったことではないのではないか
というのが、
このごろのわたしの感想です。
アーレントについていえば、
学位論文「アウグスティヌスの愛の概念」はもとより、
『全体主義の起原』でいえば、
第十二章「全体主義の支配」に「ラザロの復活」が、
またこの本の最後には、
アウグスティヌスの『神の国』からの引用があります。
近代以降、
文学に限らず、
人文書全般にわたって感じられるのは、
『聖書』の世界観が通奏低音のように響いているということ。
欧米の学術書を絵画にたとえれば、
その額縁は『聖書』ではないか。
額縁なしの絵画を見ることができないように、
ホッブズ、ロック、モンテスキュー、ルソーはもとより、
デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、
ふ~、
フッサール、ハイデガー、フーコー、ドゥルーズも、
『聖書』を抜きに語れない
のではないか。
挙げればきりがありませんが、
たとえば思いつくまま挙げた上の思想家にしても、
『聖書』を、
まあ、一回読んだ、
と、
そういったことではおそらくない。
仮に読んでいない人がいるとしても、
毛穴から浸み込んでいるということはあるだろう。
日本の人文書を読みながら、
いちばんの違和感は、
わたしの先入観、偏見かもしれないけれど、
例外はあるでしょうが、
著者が『聖書』をあまり読み込んでいないのではないか
と感じられること。
そういう意味で、
先日、
弊社から刊行された『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』
をめぐっての座談会に参加された先生たちが
『聖書』にいたく関心を持ってくれたことがうれしく、
また、有難いことだと思いました。

 

・山よりの光を放て雪解川  野衾

 

底が抜けた!?

 

一所に住まない放浪する民が日本に居たことを知ったのは、
五木寛之の『戒厳令の夜』
を読んだのがきっかけでした。
興味の湧きついでにさらに五木の『風の王国』
を読み、
さらに知りたくなって三角寛の書に手を伸ばす、
そういう時期がありました。
もう三十年以上前のことになります。
時も時、
一所に住まぬ放浪の民サンカを取り上げた映画が上映されることを知り、
なになにっ、と目を剝き、
なにを差し置いても見なければと思い、
見ました。
三十年以上前のことですから、
物語は薄靄につつまれたような具合ですが、
萩原健一扮する男と藤田弓子扮する女の滝の前でのセックスシーンは、
忘れられません。
衝撃でした。
わたしの記憶では、
キャメラは、
滝を正面から見上げるように遠望する位置であったかと。
したがって男と女の交接は、
自然の中の自然の行為とも感じられた。
女のバックから迫るとき、
萩原健一は、
山と水、取り巻く自然の光景に、ほんの短い時間、
目を向け、
それからやにわに実事に向かう。
女はのけぞる。
滝の音にかき消され、
にんげんの一切の言葉は聴こえない。
映画のタイトルは
『瀬降り物語』。
映画館から外へ出たとき、
魂の底が抜けちまって、
ふらつきながら、
アパートまで帰ったのではなかったかと思います。

 

・春寒や商店街の人まばら  野衾