人文書と『聖書』

 

ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を読んでいたら、
「ラザロの復活」
という言葉が不意に出てきました、
二度まで。
忘れもしません。
ドストエフスキーの『罪と罰』中、
ろーそくの灯の下、
殺人者ラスコーリニコフと娼婦ソーニャが語り合う場面で、
『聖書』にあるこの箇所を
ソーニャがどれほど生きる支えにしているか
を、
ドストエフスキーは印象深いタッチで描いています。
『罪と罰』をはじめ、
欧米の古典文学は『聖書』の解説書とも感じられ、
大学に入学してすぐに
『聖書』を買い求めました。
欧米の、
とくに古典文学に対する考えは基本的に変わっていません。
ところで、この視点は、
なにも文学に限ったことではないのではないか
というのが、
このごろのわたしの感想です。
アーレントについていえば、
学位論文「アウグスティヌスの愛の概念」はもとより、
『全体主義の起原』でいえば、
第十二章「全体主義の支配」に「ラザロの復活」が、
またこの本の最後には、
アウグスティヌスの『神の国』からの引用があります。
近代以降、
文学に限らず、
人文書全般にわたって感じられるのは、
『聖書』の世界観が通奏低音のように響いているということ。
欧米の学術書を絵画にたとえれば、
その額縁は『聖書』ではないか。
額縁なしの絵画を見ることができないように、
ホッブズ、ロック、モンテスキュー、ルソーはもとより、
デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、
ふ~、
フッサール、ハイデガー、フーコー、ドゥルーズも、
『聖書』を抜きに語れない
のではないか。
挙げればきりがありませんが、
たとえば思いつくまま挙げた上の思想家にしても、
『聖書』を、
まあ、一回読んだ、
と、
そういったことではおそらくない。
仮に読んでいない人がいるとしても、
毛穴から浸み込んでいるということはあるだろう。
日本の人文書を読みながら、
いちばんの違和感は、
わたしの先入観、偏見かもしれないけれど、
例外はあるでしょうが、
著者が『聖書』をあまり読み込んでいないのではないか
と感じられること。
そういう意味で、
先日、
弊社から刊行された『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント
をめぐっての座談会に参加された先生たちが
『聖書』にいたく関心を持ってくれたことがうれしく、
また、有難いことだと思いました。

 

・山よりの光を放て雪解川  野衾