触覚的受容について

 

小さな会社ではありますが、考えることは山ほどあり、
好き嫌いを言っていられないし、
苦手ジャンルなんだけどなぁと逃げるわけにもいかず、
ここにおいても、ていねいに、コツコツコツを信条に日々を送っています。
そういう日と時間を送りながら、
このごろいつも感じ考えるのは、時代の転換期、
さらに言えば、歴史の転換期をいまわたしたちは生きているのかもしれない、
ということ。
周りを見やれば、
大小さまざま多くの問題がありますが、
まず、
人とのコミュニケートのあり方が、根本的に違ってきているように感じます。
それは、
大げさに言えば、
世界への触れ方が問われていることの証ではないかと。
たとえば本の読み方にしても。
日々、
何気なく移ろいゆくように思える時間のなかで、
いま言った観点、問題意識から、
ヴァルター・ベンヤミンさんのことが視界に入ってきました。
「複製技術時代の芸術作品」のなかで、ベンヤミンさんはつぎのように語っています。
下の引用文は、
多木浩二さんの『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』
からですが、
文章そのものは、多木さんのものではなく、
巻末に収録されている「複製技術時代の芸術作品」
にあるベンヤミンさんのものです。
翻訳したのは、野村修さん。

 

始原の時代から建築は人類に随伴している。
多くの芸術形式がそのあいだに生まれては滅びた。
悲劇は古代ギリシアで成立し、
古代ギリシア人とともに消え去ってから、幾世紀もあとに復活した。
叙事詩は諸民族の青春時代に淵源をもち、
ヨーロッパではルネサンスの終わりとともに消滅した。
タブロー画は中世の産物だが、
これが中断なく続く保証はどこにもない。
しかし、
宿りをもとめる人間の欲求には中断はありえないから、
建築芸術は杜絶えることがなかった。
建築の歴史はほかのどの芸術の歴史よりも長いし、
建築の及ぼす作用を考えてみることは、
大衆と芸術作品との関係を究明しようとするすべての試みにとって、意味がある。
建築物は二重のしかたで、
使用することと観賞することとによって、受容される。
あるいは、
触覚的ならびに視覚的に、
といったほうがよいだろうか。
このような受容の概念は、
たとえば旅行者が有名な建築物を前にしたときの通例のような、
精神集中の在りかたとは、似ても似つかない。
つまり、
視覚的な受容の側での静観に似たものが、触覚的な受容の側にはないからだ。
触覚的な受容は、
注目という方途よりも、
むしろ慣れという方途を辿る。
建築においては、
慣れをつうじてのこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる。
また、
視覚的な受容にしても、
もともと緊張して注目するところからよりも以上に、
ふと目を向けるところから、
おこなわれるのである。
建築において学ばれるこのような受容のしかたは、
しかも、
ある種の状況のもとでは規範的な価値をもつ。
じじつ、
歴史の転換期にあって人間の知覚器官に課される諸課題は、
たんなる視覚の方途では、すなわち静観をもってしては、少しも解決されえない。
それらの解題は時間をかけて、
触覚的な受容に導かれた慣れをつうじて、
解決されてゆくほかはない。
(多木浩二[著]『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫、
2000年、pp.182-3)

 

・一日の悔いを宥むる虫の声  野衾