光の射程

 

しばしば、私たちは未来を垣間見ることが出来たら、と思います。
「来年はどんな年だろう。今から五年後あるいは十年後私はどこにいるだろう」
と私たちは口にします。
これらの問いには答えがありません。
私たちには、
次の時間あるいは次の日に何をしなければならないか、
といった程度のことを垣間見るだけの灯しかありません。
人生の秘訣は、
私たちが見ることの出来るものを楽しみ、
闇の中に留まっている物事について不平を言わないことです。
次の歩みを照らすのに十分な光があるという信頼をもって、
一歩を踏み出すことが出来る時、
私たちは人生を喜びをもって歩き通し、
こんなに遠くまで行けるものかということに驚くことでしょう。
私たちにあるわずかな光を喜びましょう。
そして
すべての影を取り去ってしまうような強い光を求めないようにしましょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.40)

 

いくどか引用しているナウエンのこの本は、
一回がこのぐらいの長さで、365あります。
上に引用した文章は、
1月8日のもので、
「明日を照らす確かな光」という見出しが付いています。
会社から帰宅すると、
手を洗った後にするのがこの本を開くこと
ですが、
1月8日は日曜日でしたから、
家に居ました。
仕事というわけではありませんでしたけれど、
硬めの本を読み少々疲れての夕刻、
秋田から帰ってきてまだ三日目ということもあってか、
親のことを含め、
来し方行く末をつらつら思い、考えているときに、この文章と出合いました。
哲学者の森信三は、
「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。
しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。」
と記しましたが、
逢うのは、
人だけでなく、文にも当てはまるようです。
この本の装丁が、
一昨年七月に亡くなった畏友・桂川潤さんであることも、
わたしをこの本に向かわせます。

 

・年明けて悲と喜を抱く故郷かな  野衾

 

ゲーテ詩集のひと

 

年末年始、秋田に帰省しての帰り、
JR井川さくら駅から秋田行きの各駅停車の電車に乗りました。
北国のこととて、乗客はどちらも、防寒靴を履いています。
窓の外はどんよりと曇り、
小雪がちらほら降っています。
羽後飯塚駅を過ぎ、つぎは大久保駅。
数名乗ってきた客のひとりが、
わたしのすぐ斜め向かいのシートに座り、肩から外したリュックを膝に乗せ、
中から本を取りだしました。
血管の目立つ手ににぎられた本は、ゲーテ詩集。
高橋健二の名も見えましたから、新潮文庫なのでしょう。
小口、天地、本文の紙はだいぶ焼けています。
リュックをかかえながら、
しずかに本を開き、
しおり紐のところからページに目を落としました。
ゲーテといえば、
秋田の先達で、母校の先輩でもある木村謹治がいます。
大学時代、
キムラ・サガラのドイツ語辞書をつかっていたのに、
その「キムラ」が木村謹治先生であることを、
当時は知りませんでした。
目の前でゲーテ詩集を読んでいる老人は、ひょっとして、木村先生と縁のある方ではないか。
いや、木村先生ご本人。
写真で見たことがあるから、それはないか。
それに、
木村先生はとっくに亡くなっている。
でも、特徴のある眉毛の形がどことなく似ているような…。
とりとめのない、そんなことを思っているうちに、電車は秋田駅に到着。
ゲーテ詩集のひとは、
本を戻し、
リュックサックを背負い、わたしよりも先に電車を降りました。
どこに行くのだろう、
と、
ちょっと思いましたけれど、
思っただけ。
新幹線の発車時刻まで、まだ一時間あります。

弊社は本日より営業開始。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

・存在の暾と開けゆく大旦  野衾