せつなく、いとしい

 カントール「私は二度と戻らない」、ピーター・ブルック「カルメン」、ヤン・ファーブル「劇的狂気の力」、竹内敏晴「奇跡の人」がわたしがこれまでに観た芝居のベスト4。昨日これにあらたに加わった。ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団による「ネフェス(呼気)」がそれ。
 チラシによれば「ネフェス」は、バウシュとヴッパタール舞踊団の香港、リスボン、ロサンゼルスなどの国際共同制作シリーズの新作で、バウシュと三十人のダンサーたちがイスタンブールに三週間滞在し、バザール、裏通り、海岸通りを巡って体験したことが基盤になっているという。特に決まった物語で進行するわけではなく、人生の悲喜こもごもをコラージュしている。音楽はトルコのものを中心にしているそうだが、西洋と東洋が交差する都市にふさわしく、猥雑かつ現代的、耳に新しい。踊りはどれも哀切でコケティッシュ。日常のちょっとした喜びやおかしさを切りとっていると思われるのに、ほかでは得られない共感と感動がある。
 舞台はいたってシンプルながら、舞台中央に設えられた湖(上演開始後、あれっ、なんか染み出てきたぞと思っていると、それが本当に水をたたえた湖になり、第一部のクライマックスでは天井から水が滝のように落ちてきた!)のほとりで、男と女の日常と人生が官能的に繰り広げられる。洗濯していると思われる女は、背後から忍び寄る男にそれと気づいて振り向き抱き着いて抱擁、歓喜の声を上げる。が、すぐにもとの洗濯の動作に戻り(この瞬間の表情と動作の転移が見事!)日々の労働にイヤイヤながらいそしむ。また振り返っては男に抱きつく。それが三度四度。ア〜ッア〜ッと、悲しいぐらいの現実に客席から笑いが漏れる。
 休憩二十分を挟んで第一部六十分、第二部七十分ながら、時間とともに舞台と客席の呼吸が重なってくるのが見えるようだ。チラシには「価値のある唯一の行為は愛することである。――愛することは踊ることである。」「何かを探し求めている観客は、そこで何かに出会い、自分自身の居場所を見つけ、…感情、思考、イメージのエレメントが舞台と観客で織り上げる一枚の布となるように…」のバウシュのメッセージが記されている。
 踊りの最後、男優たち全員が上半身裸で舞台の袖からカタツムリのような動きで座ったまま舞台中央へ移動してくる。女優たちが反対の袖からこれまた全員次つぎに座ったまま男たちにやさしく微笑みながら舞台中央へ移動。音楽はトム・ウェイツだ。男たち、女たちは眼差しを交わしながら近づき、だが一緒になることはなく、舞台の袖へ消えていった。やがて幕となりバウシュはじめ役者たち全員ならんだ時の拍手の凄さといったらなかった。スタンディング・オベーションの嵐。祈りのような踊りに感動し涙を拭くのを忘れた。いいものを見せてもらった。
 ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団による「ネフェス(呼気)」は、新宿文化センターにて今月16日まで(13日休演)。

十年ぶり

 スティ−ヴィー・ワンダーの新譜が今月、前作から約十年ぶりに出るそうだ。これは何をさておいても買わねばならぬ。日本盤、アメリカ盤、イギリス盤、どれにしようか。早く聴きたいから一番最初に入手可能なものにしようか。昨年あたり、出るとか出ないとか出るとか言っていたのに、結局出なかった。期待はいやが上にも高まる。アマゾンでもHMVのHPでも紹介されているから今度は本当だろう。HMVはジャケット写真までアップしている。ネット注文もいいが、ここはなにげにぶらりと店へ行き、どんなふうに展示されているのかを確認し、十年ぶりのリリースを寿ぎながら買うことにしよう。フフフ…
 一夜明け、虫の知らせか、HMVのHPをクリックしたら、ない! ない! どこにもない! ジャケット写真もない! 消えた! 急いでアマゾンをクリックしたら、こっちの紹介は消されていない。ふ〜。焦った。ま、まさか。ここまで来て。そんなことないよね。(冷汗脂汗)

生命の機

 今月刊行された『江戸文学』(ぺりかん社)に詩人の飯島耕一さんが「江戸と西洋」のタイトルで文章を書いておられる。その雄勁でのびやかな筆致に誘われるまま、気持ちをひらいて読み進んでいくと、後半の箇所において「わたしがここで手短かにではあるが紹介したいのは、幕末に仙台と江戸で儒学を学び、明治になるとアメリカに渡って、アメリカのキリスト教を中心とするコミュニティ、「新生同胞教団」に入った一人の人物のことである」として、四頁にわたり(!)新井奥邃を取り上げてくださっている。若頭ナイトウは一読、はじめて奥邃がどういう人だったのかわかった気がしますと感想をもらした。
 新井奥邃について、わたしはただ<偉い人>だと思ってきたし、今でも思っている。だから『著作集』の刊行に踏み切った。が、わたしの場合はあくまでも直感。新井の文章を読むには読んだが、系統立てて読んだわけではない。何がそんなに偉いのか、何をしたから偉いと感じるのかと訊かれれば言葉に窮する。なにをしたからということはひとまず置いといて、偉さの中身は言葉ではないかと今は思う。生前の新井を知っている工藤直太郎氏は、新井の文章がどこを切っても血の出る文章だとおっしゃった。面白おかしいことを書いているわけではないけれど、新井の文章は読むとなぜか元気が出るのだ。嘘だと思うなら『著作集』のどの巻でも読んでみてほしい(はい。これは宣伝、でも本当です)。元気の質がほかで得られる元気とちがう。そのことの理由が飯島さんの「天」をめぐっての今回の論考(さらに詩集『アメリカ』と小説『白紵歌』)を読み、新井の文章からの引用と相俟って、わたしもすこし分かった気がした。自分が、自分がと、自分のほうから推し測る見方でなく、自分がやぶられ、ひらかれる方向でものを見る見方がユニークで偉さの根幹だと思えてくる。それはまた「天」に通じているのだろう。新井の言葉に「生命の機は一息に在り」がある。
 新井を紹介する文章の末尾、飯島さんは、「現在のアメリカのキリスト教右派(福音派)が大統領選挙にも食い込んで、ゴッド、ゴッドと怪しげな牧師が何千人もの大衆を前にスピーカーで吠え立てる宗教的退廃を思う時、この儒者出身の明治人のキリスト者の存在をもう少し知りたいと思う。田中正造、野上弥生子らがこの人について語っている」と書いておられる。
 飯島さんの文章を読み、あまりのうれしさに、折れた鎖骨が突如3ミリくっついた気がした。

ベランダ菜園

 専務イシバシと総務イトウが、朝、待ち合わせをして種やら土やら鉢やらを買ってきた。わが社が入っている教育会館のベランダは、なんでだか分からぬがとても立派なベランダで、これまでも盆栽や観葉植物を置いて楽しんできたが、広々としており、まだまだもったいない。というようなことが社員一同の共通認識だから、ついに野菜の種を買ってきたのだろう。
 ふたり黙々と菜園事業にいそしんでいたが、振り返ってみれば(ベランダはわたしの背中側)おおおっ!! コンクリートの灰色を抑え、土と緑の畑ができているではないか。素晴らしい!!
 やっぱり緑はいいねえ! 緑があると気が休まるねえ! なんでなんだろうねえ! 感慨に耽りながら言葉が口をついて出る。すると専務イシバシが「田舎ものだからよ」ピシャリと言った。にべもない。
 それはともかく、まずは二十日大根(はつかだいこん)を植えたようだ。二十日で育つから名付けられたようだが実際はどうだろう。カブの形の赤い大根。予定としては、これからトマトやキュウリも植えるみたい。ちなみに、保土ヶ谷の愛ちゃんはハーブと金魚に余念がない。

共食い

 保土ヶ谷の愛ちゃん(ウチには愛ちゃんがふたりいる!)が夜店で金魚を水槽ごと買ったとかで会社に持ってきた。もうひとりの愛ちゃんは、かつて一年だか一年と半年だか金魚を飼っていたことがあるそうで、保土ヶ谷の愛ちゃんにいろいろ金魚を飼うコツを教えていた。保土ヶ谷在住でない愛ちゃん(ややっこしい)は、金魚を飼っていた頃のエピソードとしてこんな話をした。一年も飼うと金魚はずいぶんでかくなる。あとから小さい金魚を買ってきて同じ水槽に入れ、ひと晩寝て起きたら、あ〜らら、小さい金魚がいない。大きい金魚が小さい新入りの金魚を食ったのだ、云々。
 それでおいらも思い出した。秋田の家の裏に池がある。いまは半分ほどの大きさになったが、もともとはその倍あった。子供の目から見ればどっぷりとした大きな池だった。一年に一度お盆の頃になると父が池を掃除した。子供のぼくと弟はしゃがんで特長(とくべつ長い長靴だから特長、とくなが)姿の父の様子を見ていた。あるとき父は、鯉の数が減っていることを発見! 不審に思った父はさらに池を浚いながらそのわけを知る。訊けば、ナマズに食われたということだった。
 わたしはナマズを食ったこともある。が、どでかいオタマジャクシのようなふてぶてしい顔が目に浮かび、お世辞にも美味いとはいえなかった。

かい〜の♪

 眠っているあいだの行動を人と比べたことがないので確かなことは言えないが、たぶんわたしも人並みには寝返りを打つほうだと思う。ところが、鎖骨を骨折し固定バンドをやってからというもの寝返りを打たない。いや、打てない。正確には、半分だけ寝返りを打つ。布団に入るとき仰向けになって寝る。しばらくすると、どうも居ずまいが悪くなり、折れていないほうの右肩を下にする。そうやって、またしばらくすると仰向けになる。その繰り返し。その間、目覚めているかといえばそうではない。眠っている。だから、これ、無意識ということになる。
 もうひとつ、絶対にできないことがある。背中を洗うことだ。これは無理。亀が自分の甲羅が痒い(というようなことが仮にあるとして)からといって、どうにもできないのと同じように、これは、いかんともしがたい。ひとつ方法を思いついたが、そのための道具がない。ヒントは間寛平(はざま・かんぺい)だ。かんぺいのギャグで昔、柱とか壁に背中を押し付け「かい〜の」というのがあった。あの要領で背中をこする。足裏をマッサージするプラスチックのブラシを風呂の壁に接着すれば、おそらく腕を使わなくても背中を洗うことは可能だ。でも壁に簡単に装着できるマッサージブラシがない。これ、開発すれば特許取れるんじゃないかと思うがどうだろう。商品名:かい〜の♪

宿題

 再校ゲラを自宅へ持ちかえり、せっせと校正・校閲。その甲斐あって、予定していたものを終えた。気分最高。ところが、この仕事をするといつもそうなのだが、頭が固まったような状態になり、話しできなくなる。ボーとして自分でも、あらら、どうしたっていうの、と思うのだけれど仕方がない。集中してやったということだよ、と自分を慰めているのだが、我ながらもう少し早く回復して欲しい。
 台所のコーヒーカップに漂白剤を入れておいたのを忘れてグッと飲み干してしまい、あわてて牛乳を二杯飲み中和、ああ、まだ仕事モードから解放されていなかったのかと思ったものの、よくよく考えてみれば、玄関のドアにカギを掛けたかどうかすぐに忘れて戻るように、単なる呆けだったかもしれない。自分の行動に責任が持てないよ、まったく。